酒井 人真(さかい の ひとざね、生年不詳 - 延喜17年(917年)4月)は、平安時代前期の官人歌人官位従五位下土佐守

出自

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酒井氏(酒井勝・酒井宿禰)は、豊前国宇佐郡酒井郷を本拠とする渡来氏族平安時代初期に勝姓から宿禰姓に改姓したと見られる。[1]

経歴

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仁和5年(889年備前権大目に任ぜられると、左馬少属薩摩掾と、宇多朝において地方官と武官を歴任。

醍醐朝延喜2年(902年中宮少属に任ぜられて皇太夫人藤原温子に仕えるが、延喜7年(907年)温子の薨去に伴って中宮少属を辞す。翌延喜8年(908年)右少史に任官すると、太政官のを歴任して、延喜12年(912年)左大史に至る。

延喜14年(914年従五位下土佐守に叙任され、三度地方官に転じている。延喜17年(917年)4月卒去

勅撰歌人として『古今和歌集』に和歌作品1首が収められている[2]

逸話

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大和物語』に以下の逸話がある[3]

土左守官職にあったさかいの人真という者が、病気になって身体が弱って、鳥羽にある家に行く際に和歌を詠んだ。
  • ゆく人は そのかみ來むと いふものを 心ぼそしな けふのわかれは
(出かける人は「また帰ってくる」というものだが、何とも心細いことだ今日の別れは)

官歴

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『古今和歌集目録』による。

脚注

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  1. ^ 佐伯[1994: 231]
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ 『大和物語』102段

参考文献

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