近藤金次郎
近藤 金次郎(こんどう きんじろう、1866年(慶應2年) - 1933年(昭和8年)2月9日)は、日本の政治家、大野町会議員、福井県会議員、呉服店店主、亀城銀行取締役、俳人。俳号は松翠舎漣月。[5][6]
近藤 金次郎 こんどう きんじろう | |
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生年月日 | 1866年??月??日[1] |
出生地 | 日本 福井県大野郡大野町[1](現:大野市) |
没年月日 | 1933年2月9日(67歳没)[2] |
前職 | 大野町会議員、呉服商、経営者 |
所属政党 | 政友会[3] |
親族 | 近藤由太郎 [1] |
在任期間 | 1924年7月3日[4] - 不明 |
来歴
編集越前国大野郡大野町(のち福井県大野郡大野町、現:大野市)の酒造業田中家の男子として生まれた[1]。幼少の頃より同地の老舗呉服屋あらころ呉服店の店主近藤五郎右衛門の養子として育つ。1881年(明治14年)養父没後に家督を継ぎ、呉服店を継承する。1917年(大正6年)、正風音社の大野分社長を嘱託される。さらに大野町に本社のあった亀城銀行取締役(大七銀行合併の後に福井銀行に吸収される)、北陸絹布株式会社取締役、大野撚絲株式会社社長[7]、大野町会議員を歴任した。
1924年(大正13年)7月3日より、福井県会議員の尾崎弥右衛門辞職に伴う補欠選挙にて福井県会議員となった[8]。1927年(昭和2年)には越美北線促進期成同盟会を組織し、積極的な開通促進運動を行った結果、総工費1億8千万円の予算と6ヶ年の継続事業として起工が決定した。[9]。同線は一時戦中の混乱で工事中止となったが、その後1960年(昭和35年)に開通している。
俳諧
編集
脚注
編集- ^ a b c d e 『織物要鑑』東京信用交換所大阪支所、1918年、257頁。
- ^ a b 『官報 1934年02月06日』大蔵省印刷局、1934、189頁。
- ^ 『福井県議会史 第2巻』福井県議会史編さん委員会 編、1974年、1393頁。
- ^ 『福井県議会史 第2巻』福井県議会史編さん委員会 編、1974年、761頁。
- ^ a b 『越前俳諧提要』石川銀栄子、1964年、54頁。
- ^ 『越前の古俳諧』石橋重吉 編、1940年、158頁。
- ^ 『大日本商工録 : 公認 大正11年版』大日本商工会、1922年、8頁。
- ^ 『福井県議会史 第2巻』福井県議会史編さん委員会、1974年、1388頁。
- ^ 『福井商工会議所百年史』福井商工会議所、1982年、260頁。
- ^ 『水音谺 大正7戊午年』正風水音社、1916年、6頁。