近藤 清石(こんどう きよし)は、江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての国学者郷土史家長州藩士。周防国長門国の歴史に関する多くの著書を残した。

 
近藤清石
時代 江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕 天保4年4月17日1833年6月4日
死没 大正5年(1916年1月4日
改名 近藤正麗→近藤忠曄
別名 通称:小十郎、虎十郎、四郎、登一郎、清石
号:霜堤、巨四、巨芝
字:白華
長州藩
氏族 大玉氏近藤氏
父母 父:大玉新右衛門
養父:近藤源右衛門正忠
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生涯

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天保4年(1833年4月17日長州藩の豪商・大玉新右衛門[注釈 1]の次男として生まれ、中級藩士(一代遠近附士、中士下等、62石5斗)・近藤源右衛門正忠の養子となる[1]

安政6年(1859年)に長州藩の藩校明倫館に入学し、近藤芳樹から国学を、土屋蕭海から漢学を学んだ[1]。また、諸国を遊歴して諸家を訪ね、伊勢国の国学者である足代弘訓に私淑した[1]。その後、長州藩の右筆を務め、慶応2年(1866年)に事跡編纂掛となって古記録の調査に従事した。この間、政治の表舞台に立つことは無かったという[1]

明治元年(1868年)に議政局書記を経て、明治5年(1872年)に山口県庁御用掛と山口県神官教導職管事を兼任した。明治6年(1873年)には周防国一宮玉祖神社宮司として社家の指導にあたる一方で、と山口県の地誌訂正取調掛を兼務して地誌・旧記の編纂に尽力した。この時に『山口県地誌略』や『山口県史略』6巻を著している。

明治18年(1885年)に地誌局の廃止に伴って退官し隠退[1]。その後は、山口県吉敷郡八幡馬場町[注釈 2]に閑居して著述に専念し、周防国と長門国の歴史に関する多くの著書を残す[1]。明治34年(1901年)に山口県知事・古沢滋の委嘱によって『山口県風土誌』305巻の編纂を行い、明治38年(1905年)に完成させた。大正5年(1916年1月4日に死去[1]。享年84。山口の七尾山墓地に葬られた[1]

皇居三の丸尚蔵館に所蔵されている「明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」『神官僧侶』」に、明治13年(1880年)当時48歳で少教正の近藤清石の写真が納められている[2]

著作

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脚注

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注釈

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  1. ^ 後に長州藩の下級藩士(無給一代15石)となる。
  2. ^ 現在の山口県山口市八幡馬場。明治24年(1891年)に出版した「大内氏實録」の奥付に記載されている住所は「周防國吉敷郡山口町大字八幡馬場町第四番地」。

出典

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参考文献

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外部リンク

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