近藤政成
日本の江戸時代初期の大名。越前北ノ庄城主堀秀政四男で、越後蔵王堂城主近藤重勝(堀家重臣)養子。信濃近藤藩主(1代限り)。従五位下信濃守
近藤 政成(こんどう まさなり)は、江戸時代初期の大名。堀秀政の四男。
近藤政成像(京都大学総合博物館蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 天正16年(1588年) |
死没 | 元和4年6月22日(1618年8月12日) |
改名 | 高政(初名)→政成 |
別名 | 七郎太郎(通称) |
戒名 | 太清院殿如然宗愚大居士 |
墓所 | 東京都台東区松が谷の海禅寺 |
官位 | 従五位下、信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 信濃近藤藩主 |
氏族 | 堀氏→近藤氏 |
父母 | 父:堀秀政、養父:近藤重勝 |
兄弟 | 堀秀治、堀親良、村上但馬守、政成 |
妻 | 正室:生駒一正の娘、継室:柘植某の娘 |
子 | 重直 |
慶長5年(1600年)に徳川家康に拝謁して小姓となり、慶長9年(1604年)、養父の近藤重勝から越後蔵王堂の遺領1万石を継ぐ。慶長15年(1610年)、堀忠俊が改易された際に領地を信濃国高井郡、美濃国安八、山県、石津、中島郡のうちに替地され、近藤藩が成立した。
大坂の陣に従軍、永井直勝の隊に属し戦功を挙げる。しかし、元和4年(1618年)に31歳で死去した。
長男の重直は7歳であったため、12月16日、幼少を理由に半知減封となり5000石のみを相続し、伊那郡立石村(現在の長野県飯田市)に知行所を構え交代寄合となる。伯父の下野烏山藩主堀親良が後見役を命ぜられ、残りの美濃4郡5000石を賜った。
出典
編集- 「寛政重修諸家譜 巻第846」
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