赤羽四郎
赤羽 四郎(あかばね しろう、1855年(安政2年2月)- 1910年(明治43年)1月28日)は、幕末の会津藩士で明治時代の外交官。日露戦争時のスペイン公使。
あかばね しろう 赤羽 四郎 | |
---|---|
赤羽四郎(1899年) | |
生誕 | 1855年 |
死没 | 1910年1月28日 |
出身校 | エール大学 |
職業 | 外交官 |
生涯
編集父は会津藩御旗奉行[1]赤羽庄三郎。赤羽家は家禄350石の上級藩士であった。藩校日新館に学び、戊辰戦争では会津若松城に篭城して戦った。藩の降伏後猪苗代で謹慎していたが、同年輩の山川健次郎、柴四朗、高木盛之輔らと謹慎所を脱走。若松城下に赴き新政府軍に藩主父子の助命嘆願を行っている。のち斗南藩英学塾、次いで沼間守一が土佐藩藩邸に設けた塾で英学を学んだ。
1872年(明治5年)アメリカに留学しエール大学に学び、帰国後は東京大学予備門三等教諭、訓導を務めた。1880年(明治13年)外務書記生となり、以後外交官として歩む。ドイツ、ロシア、アメリカに在勤し、1892年(明治25年)外務大臣秘書官となる。公使館一等書記官を経て、弁理公使としてオランダに駐剳し、1900年(明治33年)には、清国北京駐在特命全権公使に補され、外務省参事官を兼務している。1902年(明治35年)にはスペイン国王親政式に特派大使として参列した。
北清事変では特命全権公使として活躍し[2]、日露戦争においてはスペイン公使としてバルチック艦隊の動静を報知する功績があり[2]、勲二等を授けられている[3]。会津若松市の善龍寺に墓所がある。叙従三位[4]。
- 挿話
赤羽は東京大学予備門で教職にあった際、カンニングをしている生徒の背中を叩き、一声かけたのみで問題にしなかった。このため生徒に人気があったという。
栄典・受章・受賞
編集- 位階
- 勲章等
- 外国勲章等佩用允許
脚注
編集- ^ 『慶應年間 会津藩士人名録』
- ^ a b 『20世紀日本人名事典』「赤羽四郎」
- ^ 『会津の英学』222-223頁
- ^ “特命全権公使赤羽四郎特旨叙位ノ件”. JACAR Ref.A12090023400、叙位裁可書・明治四十三年・叙位巻一(国立公文書館). 2014年11月28日閲覧。
- ^ 『官報』第907号「叙任」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第7978号「叙任及辞令」1910年1月29日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第3625号「叙任及辞令」1895年7月30日。
参考文献
編集- 会津郷土資料研究所『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店、1994年。
- 『人物レファレンス事典 明治・大正・昭和編(あ~し)』日本アソシエーツ、2000年。
- 『日本人名大事典』(復刻版)平凡社、1979年。
- 『20世紀日本人名事典 (あ-せ)』日外アソシエーツ、2004年。
- 松野良寅『会津の英学』歴史春秋社、1991年。
- 吉井庵千暦『名士の笑譚』大学堂、1900年。