諏訪蘇山 (初代)
初代 諏訪 蘇山(すわ そざん、嘉永4年5月25日(1851年6月24日) - 1922年(大正11年)2月8日)は、明治、大正時代の陶芸家。名は好武。別号は金水堂、精斎。旧加賀藩士。帝室技芸員。
初代 諏訪蘇山 | |
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生誕 |
諏訪栄三郎 嘉永4年5月25日(1851年6月24日) 加賀国金沢馬場六番丁 |
死没 |
1922年(大正11年)2月8日 京都府京都市下京区五条坂 |
墓地 | 京都市建仁寺、金沢市興徳寺 |
国籍 | 日本 |
教育 | 金沢航海学校中退 |
著名な実績 | 陶芸 |
代表作 | 青瓷鳳凰耳花瓶(東京国立博物館所蔵) |
流派 | 九谷焼、青磁、白磁 |
配偶者 | 諏訪富子 |
受賞 | 従七位 |
選出 | 帝室技芸員 |
活動期間 | 1876年(明治9年) - 1922年(大正11年) |
概要
編集加賀藩で武芸を学び、軍務に携わった後、1873年(明治6年)任田屋徳次に陶芸を学び、1876年(明治9年)大井村に工場を設立した。坂井、高岡、九谷陶器会社、金沢区立工業学校、山内伊右衛門工場など北陸地方各地で陶器、煉瓦の製造、指導を行った。
1900年(明治33年)京都市の錦光山宗兵衛工場に務めた後、1907年(明治40年)五条坂に独立した。1914年(大正3年)李氏朝鮮で高麗窯再建に携わり、1917年(大正6年)宮内省帝室技芸員に選ばれた。
生涯
編集製陶以前
編集嘉永4年(1851年)5月25日加賀国金沢馬場六番丁(石川県金沢市小橋町)に諏訪重左衛門の長男として生まれた[2]。幼名は栄三郎[1]。文久3年(1863年)13歳で父を喪ったため、藩の規定により元治元年(1864年)14歳で家名を継ぎ、同時に剣道、馬術、水練術の免許を得て家督を相続、手工により家計を支えた[2]。
明治元年(1868年)1月壮猶館教授役、明治2年(1869年)12月合図方練習、明治3年(1870年)10月五番大隊合図長を務め、12月修業のため上京し、明治4年(1871年)2月東京府兵関門上役となったが、上官と対立して5月帰郷し、12月軍を離れた[2]。
明治5年(1872年)2月金沢航海学校に入学したが、1873年(明治6年)2月閉校となり、退学した[2]。この間水産講習所で教員として働き、捕鯨用麻縄、缶詰、燻製、塩漬けについて研究した[2]。
北陸時代
編集1873年(明治6年)4月任田屋徳次に初めて陶画を学び、1875年(明治8年)2月上京、工部省教師フェノロサ邸隣に住んで美術工芸を学び、また大学校教師ゴットフリード・ワグネルに化学を学んだ[2]。1876年(明治9年)2月大井村に工場を設立し、橋本雅邦、久保田米僊等を招いて陶像、石膏像の製作、模型の捻造を行った[2]。
1877年(明治10年)8月瀬戸、京都の製陶所を視察し、九鬼隆一に従い奈良正倉院、法隆寺の古美術を鑑賞した[2]。1878年(明治11年)7月福井県坂井港で製陶の改良に携わり、1880年(明治13年)9月石川県江沼郡九谷陶器会社で陶芸を教える傍ら、陶像置物を考案し、1884年(明治17年)1月帰京した[2]。
1884年(明治17年)6月石川県工業考案者に任じられ、1886年(明治19年)高岡町で鉄瓶の蝋型改良に従事した[2]。1887年(明治20年)7月19日金沢区立工業学校補助教員となり、1888年(明治21年)6月石川県銅器会社で蝋型改良に携わった[2]。
第四高等中学校開校に当たり、煉瓦調達のため上京して直接文部大臣森有礼に相談し、技師久留正道の協力で7月河北郡法光寺村で煉瓦を製造した[2]。
1889年(明治22年)4月1日石川県立工業学校助教諭試補となり、1892年(明治25年)4月1日彫刻科教員の仮免許を受け、4月4日助教諭に進んだ[2]。1893年(明治26年)大病から蘇生し、蘇山と号した[3]。
1896年(明治29年)11月30日休職し、福井県丹生郡宮崎村字小層原の山内伊右衛門工場で陶芸を教え、土管製造場を監督した[2]。1897年(明治30年)3月12日金沢市八木煉化工場主管として煉瓦窯を設計、1898年(明治31年)2月富山県伏木煉瓦株式会社場長兼技術長に転じ、1899年(明治32年)12月辞職した[2]。
京都時代
編集1900年(明治33年)1月京都に行き、粟田の錦光山宗兵衛工場で製陶改良に携わり、彩釉透彫花瓶を製作した[2]。1901年(明治34年)10月7日日本大菩提会技術員となり、日暹寺でシャム国王寄贈の仏舎利を入れる仏龕を製作し、1903年(明治36年)10月辞職した[2]。
1906年(明治39年)10月錦光山工場を辞し、1907年(明治40年)1月京都市五条坂に独立して窯を構えた[2]。七官青磁、交趾釉、白高麗、漆黒釉等、多岐に渡る様式を研究し、1913年(大正2年)には鳥の子青磁を考案した[2]。
1914年(大正3年)1月李王職の依頼で朝鮮に渡り、高麗古窯旧跡を調査し、11月帰国して窯の再建を指導した[2]。1915年(大正4年)6月昌徳宮苑内鷹峰に完成すると、8月再訪して焼成実験を行い、10月帰国した[2]。
1917年(大正6年)6月11日宮内省帝室技芸員に選ばれ、1919年(大正9年)久邇宮邦彦王台湾訪問、1921年(大正10年)聖徳太子1,300年忌等に際し作品を献上した[2]。
死去
編集1922年(大正11年)1月風邪に罹り、肺炎を併発、持病の神経衰弱症が加わり、2月7日脳溢血を発症、8日午後10時死去した[2]。同日従七位に叙された[2]。14日建仁寺方丈で葬式が営まれ、金沢の菩提寺笹ヶ町興徳寺に分骨された[2]。法名は金水院蘇山精斎居士[2]。
死後、養女虎子が諏訪蘇山 (二代)として窯を継ぎ、1970年(昭和45年)諏訪修が諏訪蘇山 (三代)、2002年(平成14年)その三女中村公紀が諏訪蘇山 (四代)を名乗る[3]。
作品
編集- 李白観瀑大陶像 - 1878年(明治11年)作。吹上御殿に飾られた[2]。
- 唐獅子大陶像 - 1881年(明治14年)第2回内国勧業博覧会に出品し、昭憲皇太后に買い取られた[2]。
- 色絵龍燈鬼置物 - 1884年(明治17年)作。石川県立美術館所蔵[4]。
- 彩釉唐人物置物 - 1885年(明治18年)作。石川県立美術館所蔵[5]。
- 伊羅保釉高麗狗 - 1910年(明治43年)8月若宮八幡宮社に奉納[2]。
- 練上菓子鉢 - 1914年(大正3年)作。石川県立美術館所蔵[6]。
- 青瓷鳳凰耳花瓶 - 1914年(大正3年)12月作。東京国立博物館に寄贈[7][8]。
- 青磁切立香炉 - 1915年(大正4年)京都大典記念博覧会に出品。泉屋博古館所蔵[9]。
- 青瓷鳳雲文花瓶 - 1919年(大正8年)作。三の丸尚蔵館所蔵。
- 飛青瓷花瓶 - 京都国立近代美術館所蔵[10]。
- 梅透彫花瓶 - 石川県立美術館所蔵[11]。
- 唐人物置物 - 石川県九谷焼美術館所蔵[12]。
- 一つ目小僧置物 - 石川県九谷焼美術館所蔵[13]。
- 葡萄透かし花瓶 - 石川県立工業高等学校所蔵[14]。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e 小幡 1922, pp. 619–621.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 木村 1968, pp. 3–15.
- ^ a b 京都伝統陶芸家協会 2012, p. 69.
- ^ “色絵龍燈鬼置物”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “彩釉唐人物置物”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “練上菓子鉢”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “青磁鳳凰耳瓶”. 画像検索. 東京国立博物館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “寄贈者顕彰室”. 東京国立博物館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “青磁切立香炉”. 泉屋博古館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “飛青瓷花瓶”. 所蔵作品総合目録検索システム. 国立美術館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “梅透彫花瓶”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “唐人物置物”. デジタル所蔵庫. 石川県九谷焼美術館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “一つ目小僧置物”. デジタル所蔵庫. 石川県九谷焼美術館. 2016年3月20日閲覧。
- ^ “ギャラリー雪章”. 石川県立工業高等学校ギャラリー雪章運営委員会. 2016年3月20日閲覧。
参考文献
編集- 小幡茂「諏訪蘇山翁傳之」『大日本窯業協会雑誌』第30巻第364号、大日本窯業協会、1922年、doi:10.2109/jcersj1892.30.364_619。
- 「十二月號正誤 / [Correction] Journal of the Ceramic Association, Japan Vol.31 No.366 (1923) pp.e2b-e2b」『大日本窯業協会雑誌』第31巻第366号、大日本窯業協会、1923年、e2b、doi:10.2109/jcersj1892.31.366_e2b。
- 木村弘道「陶工・諏訪蘇山」『金沢美術工芸大学学報』第12号、金沢美術工芸大学、1968年、ISSN 04513215。
- 『京都伝統陶芸家協会創立五十周年記念誌』京都伝統陶芸家協会五十周年記念誌、2012年 。