解 琬(かい えん、生年不詳 - 718年)は、唐代官僚軍人本貫魏州元城県[1][2]

経歴

編集

若くして幽素挙に応じ、新政県尉に任じられた。官を歴任して、成都県丞に転じた。かれの上奏が武則天の意にかない、監察御史に抜擢されたが、父母が死去したため、離職して喪に服した。武則天は解琬が辺境のことを熟知していたことから、旧官に復帰させて、西域の諸民族を安撫に向かわせようとした。解琬は上疏して喪中を理由に固辞した。武則天は解琬の孝行を嘉して、喪が明け次第向かわせることにした[1][2]

聖暦初年、解琬は侍御史に転じ、烏質勒および十姓部落を安撫する使節をつとめた。功により御史中丞に抜擢され、北庭都護・持節・西域安撫使を兼ねた。解琬は郭元振と仲が良かったことから、宗楚客に憎まれ、滄州刺史に左遷された。景龍年間、右御史大夫・持節・朔方行軍大総管に転じた。解琬は軍にあること前後二十数年、兵士に農業させ戦術を習わせ、利益するところ多く、西北辺境はこのため安定した[1][2]

景雲2年(711年)、解琬は再び朔方軍大総管となった。解琬は張冠宗・韋景駿・于処忠らを分遣して三城の兵募を計量させ、10万人を減員するよう上奏した。ほどなく右武衛大将軍に任じられ、検校晋州刺史を兼ね、済南県男の爵位を受けた。老齢のため引退を願い出た。金紫光禄大夫の位を受け、致仕を許された[3][4]

開元2年(714年)、吐蕃が唐の辺境を侵犯すると、解琬は再び召還されて左散騎常侍の位を受け、吐蕃との国境を画定させ、十姓の降戸を処置するよう命じられた。解琬は吐蕃の相の坌達延と会談し、河源軍に国境を定める盟約を結んだ[5]。解琬は帰国すると、吐蕃が盟約を破ることを予見し、兵10万を秦州渭州などに分遣して防備を整えるよう請願した。この年の冬、はたして吐蕃が侵入してくると、解琬は兵を分遣してこれを撃退した。まもなく再び上表して致仕を請願したが、許可されず、太子賓客に転じた。開元5年(717年)、同州刺史として出向した。開元6年(718年)、死去した。享年は八十数歳[6][7]

脚注

編集
  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 3112.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4500.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3112–3113.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4500–4501.
  5. ^ 新唐書 1975, p. 6081.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 3113.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 4501.

伝記資料

編集

参考文献

編集
  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6