螢雪時代
『螢雪時代』(けいせつじだい)は、旺文社から刊行されている大学受験生向けの月刊雑誌。広義には「臨時増刊号」を含む。
螢雪時代 | |
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1941年(昭和16年)10月号 『受験旬報』から改題 | |
愛称・略称 | 螢雪 |
ジャンル | 学習 |
読者対象 | 大学受験生 |
刊行頻度 |
毎月14日 (月により5日〜13日の間に発売する場合あり) |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
定価 | 990円(2021年12月現在) |
出版社 | 旺文社 |
刊行期間 | 1932年(1932年10月号) - 現在 |
姉妹誌 | 螢雪時代臨時増刊号 |
ウェブサイト | http://www.obunsha.co.jp/ |
概要
編集1932年(昭和7年)創刊で、日本で最も古くから存在する定期刊行の大学受験雑誌[1]。
1970年代頃までは全国展開の大手予備校などはなく、大都市圏のみならず地方に住む大学受験生の受験勉強、受験対策に欠かせない雑誌であった。
現在においても日本唯一の定期刊行の大学受験専門誌であり、大学受験・進学の進路指導において権威を持つ。かつては競合誌として学研刊行の『高三コース』(刊行後期は『大学受験Vコース』と改題)が存在した。
変遷
編集『受験旬報』期
編集1932年(昭和7年)10月号 - 1941年(昭和16年)9月号。
1931年(昭和6年)9月1日に歐文社(現旺文社)を創業した赤尾好夫は、学生のための通信教育・進路指導・学習参考書等の出版事業を開始した。通信教育会員の増加に伴い翌1932年(昭和7年)10月、会員の機関誌として『受験旬報』を創刊。『受験旬報』は通信添削会員向けの通信誌であり、旧制高校、旧制専門学校、大学予科への受験者を読者とし、月3回刊行。
創刊時の通信添削の会員は17名、『受験旬報』は赤尾好夫とその友人の二人だけで作ったという。赤尾は自ら編集長を務め、また「巻頭言」「受験対策」「受験旬報懸賞問題」などのコーナーの執筆を担当。誌面と添削により全力で受験生を激励する赤尾の姿勢は全国の受験生に支持され、『受験旬報』は発行部数を急速に伸ばす。
赤尾は発刊の翌年、龍山中学校の教諭原仙作に英語の参考書を執筆させたが、これが現在でもロングセラーを続ける旺文社『英語標準問題精講』である。原は『受験旬報』の記事執筆者の一人でもある。
中曽根康弘(旧制静岡高校に進学、後の第71 - 73代内閣総理大臣)は通信添削会員の一人であり『受験旬報』の読者であった。
『螢雪時代』前期
編集1941年(昭和16年)10月号 - 1948年(昭和23年)3月号。
『受験旬報』は1941年(昭和16年)10月号より、『螢雪時代』と改題され、一般読者向け大学受験進学の専門月刊誌となった。螢雪という名称は、中国の故事である「螢雪の功」(夏は螢の光で冬は雪明かりで勉強する、転じて苦労して勉学に励む)に由来する。『螢雪時代』第1号の定価は50銭。
『螢雪時代』1941年(昭和16年)10月号編集後記には改題について次のように記されている。「本誌は、長年耳慣れた『受験旬報』の名前に別れを告げ、『螢雪時代』という新しい名前の下に再躍進することとなりました。元々『受験旬報』という名前は、昨年9月に従来の旬刊を改めて月刊とした時に改題すべきものであったのですが、種々の事情から出来なかったのです。然し名前が変わったからといって、急に内容迄すっかりかわるわけではありません。今後は従来の記事の他に訓話とか、科学読物とか、偉人の伝記といった諸君の常識を増しためになる記事も出来るだけ多く盛って中等学生の学習指導雑誌として完璧の内容のものとしたいと思っています。兎に角次号から内容はぐっと清新なものとなります。ご期待ください。」
『螢雪時代』後期
編集1948年(昭和23年)4月号以降。
日本国憲法、教育基本法、学校教育法等の制定により、1949年(昭和24年)に新制大学の入学者選抜が行われることとなった。『螢雪時代』はこれに対応するため昭和23年4月号より、新制大学の入試を準拠した内容にシフトし、大学進学者を読者とした。
特に戦後から1970年代にかけての長期にわたり『螢雪時代』は独占的な黄金期にあった。この時代の『螢雪時代』は短歌、俳句、詩の投稿コーナーが設けられており、受験情報誌のみならず文学に関心のある青少年たちにとっての重要な文化拠点となっていた。この投稿欄を出自とする文学者は数多く、中でも少年時代から天才を発揮して注目を集めていた寺山修司が著名である。しかし1970年代後半から全国的な予備校増設や模擬試験乱立が顕著に見られ、『螢雪時代』もこの新たな波に見舞われ始めた。これを契機として、さまざまな持続可能性を示す編集や改革が行われた。
1990年代には、姉妹紙である『螢雪アルシェ』が発行されていた。ここには、当時人気の予備校講師等の講座が掲載されていた。予備校講師以外では、細野真宏(数学、当時フリー)、林省之介(古文、当時関西大学助教授)等も参加している。
大学特信員制度
編集『螢雪時代』の強さの秘密の一つに「大学特信員」制度の充実があった。「大学特信員」とは『螢雪時代』の読者で、大学入学後に編集協力を行うメンバーのことである。常時1,000名を超えた「大学特信員」は、入学大学のナマの情報や受験体験記を提供したが、これが受験生にとって大学選び、受験対策を行う上で、得難い情報となった。
年間の編集基本方針(プライオリティー)
編集
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「螢雪」新語・造語(キャッチコピー)
編集編集部、読者、「大学特信員」による三位一体の誌面作りで、受験世相を反映した独自の新語、造語が数多く誕生した。以下は主なもの。
大判化
編集1967年(昭和42年)4月号以降。受験情報の増加、ビジュアル化の波に対応するため『螢雪時代』は大判化された。タイトル文字のデザイン変更、誌面刷新など、時代の変化に対応した変更がなされた。
『螢雪時代』タイトル文字のデザイン変更は、1975年(昭和50年)4月号、1985年(昭和60年)4月号において行われた。
最先端の入試情報提供
編集大学受験界の伝統的先端雑誌として他を圧倒する情報源及び情報を保持していた『螢雪時代』は、一般読者(受験生)はもとより、大学、高校、マスコミ、大手予備校関係者へその最新・独占情報等を提供し続け大学受験界を常にリードした。
- 文部科学省(文部省)の最新情報公開。
- 入学者選抜法(入試科目・入試日程・募集方法)の完全掲載。
- 全大学の入試結果の完全掲載。
- 東大、京大、早大、慶大等の合格者最低点に関する完全掲載。
- 共通一次試験予想平均点。その的中率は他の大手予備校と比べて非常に高かったと言われている。
こうしたことから日本の大学受験に関する変遷や歴史などの調査研究においても、欠かせない資料源として活用されている。
関連の社内出版事業等
編集戦前 - 終戦まで
編集- 1931年(昭和6年)9月 赤尾好夫が歐文社(現旺文社)創業。
- 1932年(昭和7年)10月 『受験旬報』創刊。旧制高校、専門学校、大学予科受験生対象とする通信教育会員の機関誌。
- 1933年(昭和8年)『英文標準問題精講』(原仙作著)刊行。
- 1935年(昭和10年) 『入試突破の対策を語る』刊行、赤尾好夫編『英単語熟語の総合的研究』刊行(初のロングセラー)。
- 1936年(昭和11年) 高・専・大学予科『入学試験問題詳解』刊行。赤尾好夫編『英語基本単語集』刊行。
- 1941年(昭和16年)『受験旬報』を『螢雪時代』と改題し月刊とする(定価50銭)。
- 1942年(昭和17年)8月 「歐文社」を「旺文社」に社名変更。
戦後
編集- 1945年(昭和20年)『螢雪時代』10月号を戦後の更新第1号として発行。定価1円。
- 1949年(昭和24年) 『中学時代』創刊、『傾向と対策シリーズ』刊行。
- 1952年(昭和27年)3月 「大学受験ラジオ講座」放送開始(文化放送)、『大学受験ラジオ講座テキスト』創刊。
- 1954年(昭和29年)9月 『高校時代』創刊。11月、大学入試「模擬試験」開始。
- 1955年(昭和30年)4月 『基礎英語ラジオ講座』放送開始。
- 1956年(昭和31年)11月 『中学時代』を学年別に。
- 1957年(昭和32年)9月 「全国学芸コンクール」創設、募集開始。
- 1958年(昭和33年)4月 『百万人の英語テキスト』創刊。
- 1964年(昭和39年)4月 『高校時代』を学年別に。
- 1975年(昭和50年)4月 『小学時代』創刊。
- 1976年(昭和51年)4月 『小学時代』を『小学時代6年生』に改題。
- 1977年(昭和52年)4月 『小学時代5年生』創刊。
- 1980年(昭和55年)4月 『螢雪短大』創刊。
- 1988年(昭和63年)4月 『私大合格』創刊。後『私大螢雪』に改題。
螢雪時代臨時増刊号
編集『螢雪時代』は毎月の定期号以外に、タイムリーなテーマ別全情報を網羅した『螢雪時代臨時増刊号』を毎年発刊。 以下は2008年(平成20年)のラインナップ。
- 『全国大学学部・学科案内号』(4月臨時増刊)
- 『進路決定資格・検定・職業ガイド』(6月臨時増刊)
- 『全国大学推薦・AO入試合格対策号』(7月臨時増刊)
- 『全国大学内容案内号』(8月号)
- 『全国大学推薦・AO入試年鑑』(9月臨時増刊)
- 『全国看護・医療・福祉系(大学・短大・専門学校)受験年鑑』(10月臨時増刊)
- 『全国大学受験年鑑』(11月臨時増刊)
- 『全国大学小論文入試全出題』(螢雪時代特別編集)
備考
編集脚注
編集- ^ 旧制高等教育機関受験に関する雑誌としては、『受験旬報』以前に博文館の『中学世界』[1][2] や研究社の『受験と学生』[3][4] などが発行されていた。
- ^ JARパック:Jは上智大学、Aは青山学院大学、Rは立教大学。各大学名のイニシャルから、1965(昭和40)年代に海外旅行で「JALパック」という言葉が流行していた頃に造語された。
- ^ 関関同立:関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学。志願者数の多い関西の人気私立大学群。関西の予備校関係者よると、1960(昭和35)年頃に造語された。
- ^ 日東専駒成成神:日本大学、東洋大学、専修大学、駒澤大学、成城大学、成蹊大学、神奈川大学。1970年代後半に志願者の急増を見せ、関東の人気私立大学群として1975(昭和50)年頃に造語された。
- ^ 産近甲龍:京都産業大学、近畿大学、甲南大学、龍谷大学。志願者の多い関西の人気私立大学群。1975(昭和50)年頃に造語された。関東の「日東専駒成成神」に対応する。
- ^ 津東本女:津田塾大学、東京女子大学、日本女子大学。関東の私立難関女子大学で、1975(昭和50)年頃に造語された。なお、関東の女子大学の難易ランキングを示した「津田の東の本女にはセイントフェリスの泉あり、大妻実践共立の昭和娘(むすめ)の白百合は武蔵野跡に咲き乱る」 なども、女子受験生に人気の大学群。津田塾大学、東京女子大学、日本女子大学、聖心女子大学、フェリス女学院大学、清泉女子大学、大妻女子大学、実践女子大学、共立女子大学、昭和女子大学、武蔵野女子大学(現武蔵野大学)、跡見学園女子大学。1980(昭和55)年頃に造語された。
- ^ 大東亜帝国:大東文化大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学からなる人気私立大学群。昭和末の受験生急増期に志願者を集めた関東のグループとして、合格確保の為の安全校として、特定受験層に狙われた。大東亜共栄圏、大日本帝国をもじって、1985(昭和60)年頃に造語された。
- ^ 赤尾浪士:『螢雪時代』の浪人読者が自らを「赤尾浪士」と称した。旺文社社長赤尾好夫と赤穂の浪士をもじったもの。旺文社版参考書で受験勉強中の浪人を赤尾浪士と呼んだ。
- ^ 赤尾の豆単:赤尾好夫編のロングセラー『英語基本単語集』『英語基本単語熟語集』の愛称。「豆単を知らざれば受験生にあらず」 として、受験界で長らく伝えられていた。
- ^ 赤門入試崩壊:1969(昭和44)年、大学紛争による史上初の東京大学の入試中止。朱塗りの 「赤門」は東大の象徴。
- ^ 後がこわい入試:新課程入試を翌年に控える旧課程受験生の危機感から生まれる。高等学校の新学習指導要領に準拠して入試の出題形式や内容が変わるので、旧課程卒業の浪人にとっては「後がこわい入試」 「後がない入試」と危惧された。
- ^ 1・2・3併願作戦:『螢雪時代』が創出した合格確保のための併願基本モデル。例えば、合格難易度から第1志望1校、第2志望2校、第3志望3校とするのが「1・2・3併願作戦」で、さらに入試環境の変化や個人的事情等による1・2・2、1・3・3、1・3・4などのパターンがあった。
- ^ 「駅弁大学」 とは1949(昭和24)年、大宅壮一が戦後の“雨後の竹の子"のごとく誕生した新制大学を揶揄した造語。「駅伝大学」 とは正月の箱根駅伝出場により学生募集の宣伝効果(テレビ等)を狙う大学を名指す造語。優勝による志願者数の増加は確実で、一方、駅伝出場により初めて大学名が一般に知られるケースも少なくなかった。平成期(1989年以降)に入り、特に新設大学を含めてその傾向は顕著になった。当初、外国人留学生が箱根路を独走する光景などは、とても想像できるものでなかった。
- ^ 隔年現象:前年の志願者数増減等の動向により、翌年の志願動向が変わる現象。「前増後減」 現象とも言われた
- ^ 学歴志向:1960(昭和35)年以降、高度経済成長に支えられて学歴取得のために、上昇した大学進学志向。大学(短大)進学率は1960年10.3%、1965(昭和40)年17.0%、1970(昭和45)年23.6%、1975(昭和50)年38.4%、そして2008(平成20)年には55.3%にまで上昇。
- ^ 共痛一次:1979(昭和54)年から、国公立大受験者には「共通第一次学力試験」 が課せられ、5教科7科目もの新たな科目増対策は“共に悩み痛む"「共痛一次」となる。
- ^ 傾斜配点:教科(科目)別の配点が平等型でなく、高低格差のある配点方式を「傾斜配点」と呼んだ。共通第一次学力試験や大学入試センター試験導入などにより、教科(科目)別の配点は学部・学科別や選抜方式別などによって多様化・流動化した。
- ^ 螢雪広告時代:増加する私立大学(短大)ならびに乱立する予備校にとって、『螢雪時代』は抜群の宣伝効果誌として利用された。『螢雪時代』は有名大学や予備校の『螢雪広告時代』の異名さえあったが、その黄金期には別冊『私大合格』や『私大螢雪』等の刊行された時期もあった。
- ^ 現低浪高の役:1965(昭和40)年以降1998(平成10)年ころまで、不合格者続出による浪人の大量出現となり、志願者・合格者とも浪人占有率は上昇した。このような構造変化の中、現役苦戦、浪人優勢の 「現低浪高の役(乱)」 は激化の一途をたどった。なお、この現象について、一方で「現苦浪勝の役」 とも言われた。
- ^ 国落私合・国合私落:1979(昭和54)年の国公立大の共通第一次学力試験導入や入試期別の一本化(期別廃止)等により、国(公)私立大併願の結果に顕著な変化が現れた。例えば、国立大には不合格だが、併願の私立大には合格といった従来の「国落私合」のパターンが崩れ、国立大に合格しても、私立大には不合格といった「国合私落」 の“逆転現象"である。特に私立大上位校と国立大との併願で顕著に見られるようになった。このような受験地図の変貌は、1987(昭和62)年の国公立大入試の複数化前後まで続いた。
- ^ 国立大一揆:代表例として、(1)1960年代の東京大学・京都大学・東京教育大学等の学園紛争、(2)入試期日の変更等に伴う国立大学間の相互対立が挙げられる。特に(2)の1987(昭和62)年の複数化入試に伴う日程混乱(京都大法学部等のAB日程“造反")は、受験界に大混乱を招いた「国立大一揆」 の典型例とされた。
- ^ 『豆単』に続く入試直結のハンディーなポケット判単語集の総称。利用者を“シケ単携帯族"とも呼んだ。
- ^ 四当五落:「4時間しか眠らず努力する者は合格するが、5時間も眠る怠け者は不合格となる」といった戒めの名言とされる。
- ^ 受験地獄・受験戦争:競争激化による受験の異常な厳しさを地獄や戦争 になぞらえた造語。「受験地獄・受験戦争」 には『受験旬報』期から続く長い歴史がある。特に戦後では大学 (短大)合格率60%の前期(1960<昭和35>年 - 1970<昭和45>年)および後期の(1983<昭和58>年 - 1994<平成6>年)に乱用された。しかし、2000(平成10) 年以降の受験生数減少や“大学全入時代"を前に、かつての面影は失せつつある。
- ^ 受験バイブル:『受験旬報』『螢雪時代』は受験界の最も権威ある書として評価され、受験生に「バイブル」とまで呼ばれていた。奇しくも1980(昭和55)年、赤尾好夫はその「広範な教育事業」 に対して、ローマ法王より「銀大勲章付大聖グレゴリオ賞」 を受賞している。
- ^ 受験風林火山:「風林火山」 とは武田信玄が用いた軍旗に記された孫子の句。「疾きこと風のごとく、序かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」の略記。『受験旬報』時代から受験の金言として親しまれていた。
- ^ 『受験旬報』以来、受験にはつねに悲しく苦しい“受験ブルース"がつきまとうが、1966(昭和41)年ころ、高石友也作曲の「受験生ブルース」 が大流行した。奇しくも1966(昭和41)年から1968(昭和43)年にかけた3年間は、史上最多の第一次団塊世代(18歳人口最多は1966年249万)の大学受験となり、未曾有のブルース受験生が誕生 した。大学(短大)志願者は1965(昭和40)年の49万人から、1966年64万人、1967年70万人、1968年71万人と激増し、逆に合格率は1965年67.0%から1966年61.7%、1967年61.8%と大幅ダウンした。まさに悲しい最悪の「受験ブルース」 「受験エレジー」 時代だったのである。
- ^ 受験RENTAL症候群:経済の安定化や進学の大衆化(マス化)とともに顕著になった挑戦・リスク回避の“受験レンタル"シンドローム。R-riskの少ない(合格安全)、E-energyの消費が少ない(少数科目)、N-nearで近場にある(近接大学)、T-togetherで行ける(仲間と一緒)、A-amenityに満ちた(快適環境)、L-look&locationに恵まれた(都市型)など、新たな大学選びの風潮を言う。
- ^ 女子の大合短落:女子短大卒の就職好調期に、系列の四年制大学には合格できても短大には不合格といった「大合短落」 の一時的逆転現象が見られた。
- ^ 女子亡大論・男子亡大論:1962(昭和37)年、早稲田大学文学部の暉峻康隆教授による「女子学生亡国論」 は社会的大論争を巻き起こした。これを契機として、女子による教室独占が大学を亡ぼすといった極論まで現れ、「女子亡大論」 が登場した。ちなみに、1962年の全大学に見る文学部の女子占有率は37%で、上位校では学習院大学89%、青山学院大学86%、成城大学となっていた。その後、1966(昭和41)年には国立の熊本大学・九州大学・富山大学等の薬学部で女子学生入学制限の動きも出たが、これは卒業生の猛反対で断念に追いやられた。そのころ一方で、「男子亡大論」も賑やかに登場し始めた。ちなみに、女子の大学進学率の推移は1960(昭和35)年2.5%、1970(昭和45年) 6.5%、1980 (昭和55年)12.3%、1990(平成2)年15.2%、2000(平成12)年31.5%、そして2008(平成20)年には42.6%と加速的上昇を続けている。
- ^ SKYラーク:大学受験者急増の1980(昭和55)年前後から、全国各地に予備校の乱立が顕著となった。予備校は大量浪人の“駆込寺"と化した。中でも大手の駿台予備学校(S)、河合塾(K)、代々木ゼミナール(Y)は一挙に全国展開を開始した。それは空高く舞い上がる春のヒバリ(ラーク)を彷彿させた。このころ、予備校に関するユーモアも激増した。
- ^ スベリ台受験:学力選抜中心の受験生急増期、低学力では第3、第4志望校でもスベリ止めにならない「スベリ台大学」 が増加した。ちなみに大学(短大)の不合格者数は1975(昭和50)年22万人、1980(昭和55)年24万人、1985(昭和60)年26万人、1990 (平成2)年43万人と増加を続け、その後は1991(平成3)年42万人、1995(平成7)年33万人、2008(平成20)年6万人と減少している。大学キャンパスから今、“受験スベリ台”は撤去されつつある。
- ^ 全国大学入学難易ランキング:前年11月に実施する旺文社最終の大学模擬試験結果と、翌年の合否追跡調査等の分析から算出される大学難易ランキング。旺文社では1951(昭和29)年から先駆的かつ全国最大規模の大学模擬試験を実施。最盛時には45万人の受験生が参加。この膨大なデータ(模擬試験偏差値)を集大成したのが、1952(昭和30)年以降の『螢雪時代』本誌企画ならびに1960(昭和40)年代後半からの特別付録 「全国大学(学部・学科)難易ランキング」 である。
- ^ 大学受験難民・隠れ浪人:大学受験浪人が急増した第一期は第一次団塊世代受験の1967(昭和42)年から翌々年まで、第二期は第二次団塊世代が受験した1986 (昭和61)年から1992(平成4)年とされている。第一期のピークには27万人、第二期のピークには43万人を数え、きわめて憂慮すべき「大学受験難民」 時代と呼ばれた。その一方、不本意入学で再受験を目指す大学生も多く、“隠れキリシタン"になぞらえて「隠れ浪人」 「偽装浪人」とも呼ばれていた。
- ^ 大学評価ランキング:大学ミシュラン評価とも。偏差値一辺倒で入れそうな大学を選び、しかも見栄と世間体、親や学校の期待に応えるために、評判のよさそうな大学を選び 受験・合格した。しかし、入学してみると、授業がつまらない、魅力的な教授やカリキュラムがない、雰囲気が気に入らない、……。」 こんな読者からの共通不満に答えるために1987(昭和62)年、わが国初の『100大学BEST CHOICE』を『螢雪時代』別冊として刊行したが、その編集内容は満足度21項目をミシュラン方式(五つ星)で評価した異色のガイドブックとなった。その後の各社に見られる大学評価の先鞭書となったのである。
- ^ 大学ベルリンの壁:戦後の国立大一期・二期時代から期別廃止時代を経て1986(昭和61)年の長期にわたり、東京大学と京都大学との受験は不可能であった。両大学受験はこの入試日程上の“ベルリンの壁"によって阻止されていた。しかし、1987年の国立大入試期日の複数化により東大はB日程、京大はA日程(法学部のみ変則的AB分割)と分離され、ここに初めて東西トップ校の受験が可能となった。これを機にようやく東大・京大併願の“ベルリンの壁"は崩壊することになったのである。
- ^ 都立校沈没:1970(昭和45)年、東京大学合格者ランキングに大異変が起きた。1950(昭和25)年以降、東大合格トップの座(1964年2位、1969年東大入試中止を除く)を占めていた都立日比谷高校が5位に急落し、以後ベスト10からその姿を完全に消している。都立校全体としても1978(昭和53)年以降、ベスト10に入った高校は皆無であるが、その原因は1967(昭和42)年から導入の都立学校群制度によるものである。ちなみに、1970年は学校群制度による初回卒業の大学入試であった。
- ^ 二期コンプレ:1978(昭和53)年まで国立大は一期校、二期校の入試日程別にグルーピングされていた。一期校は東京大学、京都大学など旧帝大系や東京では一橋大学、東京工業大学、お茶の水女子大学などの第一志望校が多く、一方、二期校の多くは地方大学で第二志望校として定着していた。したがって、一期校に失敗して、二期校に合格した受験生の多くには、進学後もいわゆる「二期校進学コンプレックス」 があった。しかし、1987(昭和62)年の入試期日一本化以降、大学改革や格差解消等もあって「二期コンプレッ(クス)」 「二期アレ(ルギー)」 は消えつつある。
- ^ 入試怪革:入試改革の多くが、「入試怪革」 「改革災害」 の様相を呈した。例えば1979(昭和54)年の国公立大の期別廃止、さらには1987(昭和62)年の国公立大複数化入試の復活(AB日程グループ)などである。特に直近の複数化入試に関しては京都大学の“日程反乱"、さらには初年度に見る受験史上最多の京大合格者数1,481人増の発表(対募集定員)、一方では東大入学辞退者290人(1988<昭和63>年381人)の異常な合格者発表などが混乱の一端を実証している。国公立大全体としても当初の募集定員割れが約9,500人、追加合格により今度は約3,000人もの定員超過等々、入学者選抜の異常化・混乱化が露呈した。その後1990(平成2)年から窮余の一策的対応によりようやく混乱を静めたのである。受験機会の複数化を標榜するものの、例えば当初には、東大・一橋大・東京工大・お茶の水女子大等の併願は閉ざされていた。
- ^ 入りたい大学・入れる大学:入学が選抜試験による限り、希望する大学にだれもが入れる保証はない。「受験旬報」 時代から「入りたい大学・入れる大学」 は登場するが、受験生の多くはまず入りたい大学を目指し、その合格実現に向けて努力するのである。しかし、この“入りたい"から“入れる" 志向へのシフト変化が顕著になったのは競争激化と進学のマス期に始まったようだ。それは“挑戦か"“安全か"の受験志向のの二極化でもある。
- ^ ヒール剥がし:女子の大学進学が高まり、「女子学生亡国論」 「女子亡大論」 が登場し始めたころ、私立大の一部には女子入学の抑制対策が側聞された。女子は卒業後の大学貢献度が少ないなどの理由によるもので、合格線上の得点を下方調整(カット)する「ヒール剥がし」 であった。噂の域を出なかったが、特に男子中心校で話題になっていたようだ。(「女子亡大論・男子亡大論」 参照)
- ^ フォッサ・マグナ分割:1987(昭和62)年、国公立大では初の入試日程別の複数化入試を実施した。特に注目されたのは、国立大A日程グループには西の旧帝大系である名古屋大学・京都大学(法学部はAB)・大阪大学・九州大学が含まれ、Bグループには東の旧帝大系の北海道大学・東北大学・東京大学が含まれる区分けである。この旧帝大系大学に見る大東西分割の線引きがいわゆる「フォッサ・マグナ分割」 の由来である。なお、その他の大学については旧一期校・二期校時代の発想を踏襲しつつ、AB日程別に配分されたのである。
- ^ 富士山・八ヶ岳・五色沼:1975(昭和50) 年当時、大学間の格差拡大を懸念した永井道雄文部大臣は「富士山型から八ヶ岳」 大学を提案した。しかし、受験生からはより柔軟な個性豊かな大学教育の「五色沼型」 を要望する声が上がり始めた。
- ^ マスプロ大学:1970(昭和45)年前後から問題化した「マスプロ教育」 「マスプロ教室」。
- ^ 万年浪人:進学の夢がかなわず、長い年月にわたって受験生活を強いられている浪人のこと。『受験旬報』時代からのユーモア的受験生用語。
- ^ 模擬死験:模擬試験偏重と乱立時代、毎週のように模擬試験参加が強制された特に高校生。加えて、あまりにも異なる合格可能性は混乱・挫折に陥れ、なかには自殺者まで出した。受験校選定・突破のための模擬試験やそのデータが、死にまで追い込んだ最悪の悲劇はまさに「模擬」に終わらないの“死への現実"となった。
- ^ 6・3・3α:大学受験者数の増加と現役不合格者数の急増で、1975(昭和50)年から1995(平成7)年にわたり、多くの浪人は予備校を利用した(予備校黄金期)。この時期の大学(短大)合格率は70%台から60%台にまでダウンを続けた。このような状況下、わが国の中等教育は「6・3・3α」 の様相を露呈した。
- ^ 渡り鳥受験:「渡り鳥受験」とは渡り鳥のように合格校確保のために併願校を渡り歩くこと。例えば1・3・4併願の渡り鳥受験は計8校にもなる。合格率低下の1966(昭和41)年前後、さらには1983(昭和58)年から1994(平成6)年にかけて渡り鳥受験 は特に目立っていた。
参考文献
編集- 『日本国「受験ユーモア」五十五年史』(旺文社、1985年) ISBN 4-01-009601-2
- 『出す単』(旺文社) ISBN 4-01-009714-0
- 『英語基本単語集(豆単)』(旺文社) ISBN 4-01-031222-X
- 『英文標準問題精講』(旺文社) ISBN 4-01-032331-0
- 『戦後史開封 昭和20年代編(扶桑社文庫)』(産経新聞ニュースサービス、1999年) ISBN 4-594-02694-X
- 『大学の“くくり”はどのように生まれたのか?』