藤波和忠
藤波 和忠(ふじなみ かずただ)は、江戸時代中期の日本の公卿、神宮祭主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永4年1月9日(1707年2月11日) |
死没 | 明和2年12月6日(1766年1月16日) |
官位 | 正二位非参議 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇→後桜町天皇 |
氏族 | 藤波家 |
父母 | 父:藤波徳忠、母:家女房 |
兄弟 | 貞姓院、和忠、效忠、暁雲院 |
妻 | 牧野英成女 |
子 |
実子:駿麿、伊子、寛忠ほか 養子:效忠、季忠 |
生涯
編集宝永4年(1707年)、当時神祇権大副の徳忠の子として生まれる。宝永8年(1711年)に5歳で叙爵され、正徳5年(1715年)、9歳で元服・昇殿を許され、同日に左京大夫に任じられ、以降順調に昇叙していった。
享保12年(1727年)、21歳で祭主となるが、同年中に両親を亡くす。享保18年(1733年)、従三位に叙され公卿に列するが、嫡男の駿麿を亡くした。その後は男児に恵まれず、遂に実弟・效忠を養子に迎え入れたが、こちらも寛延4年(1751年)1月に6歳で亡くなってしまう[1]。そのため、同年9月25日には、下冷泉家の宗家の次男久丸を婿養子として迎え入れることにした[2]。宝暦9年(1764年)、待望の男児、寛忠が生まれた。しかし祭主職は、三年後の宝暦12年、そのまま養子・季忠に継承された。
明和2年12月5日、正二位に叙される。その翌日、59歳で薨去した。
官歴
編集- 宝永8年2月12日(1711年3月30日)、従五位下
- 正徳5年11月16日(1715年12月11日)、左京大夫
- 正徳5年12月27日(1716年1月21日)、従五位上
- 享保2年5月10日(1717年6月18日)、神祇権大副、兼左京大夫
- 享保3年12月26日(1719年2月14日)、正五位下
- 享保7年2月3日(1722年3月19日)、従四位下
- 享保11年5月28日(1726年6月27日)、従四位上
- 享保12年閏1月21日(1727年3月13日)、祭主、神祇大副へ転任、左京大夫如元
- 享保12年閏1月24日(1727年3月16日)、両宮造宮使
- 享保12年7月6日(1727年8月22日)、除服出仕復任[注 1]
- 享保12年11月18日(1727年12月30日)、除服出仕復任[注 2]
- 享保13年10月7日(1728年11月8日)、造宮使に還補
- 享保14年1月16日(1729年2月13日)、正四位下
- 享保18年1月23日(1733年3月8日)、従三位、神祇大副如元[注 3]
- 元文3年11月23日(1739年1月2日)、正三位
- 元文5年2月27日(1740年3月24日)、伊勢権守を兼任
- 寛保2年2月6日(1742年3月12日)、造宮使
- 延享元年7月13日(1744年8月20日)、伊勢権守を辞任
- 寛延元年11月21日(1749年1月9日)、従二位
- 宝暦12年1月22日(1767年2月15日)、祭主を辞任
- 明和元年10月2日(1764年10月26日)、神祇大副を辞任
- 明和2年12月5日(1766年1月16日)、正二位