藤原資家 (従三位)
藤原定能の子。平安時代末期から鎌倉時代の公卿。藤原北家道綱流。右近衛少将。非参議従三位。
藤原 資家(ふじわら の すけいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原北家道綱流。権大納言藤原定能の三男。兄に藤原親能、藤原定季がいる。最終官位は非参議従三位。
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 養和2年(1182年) |
死没 | 康元元年10月25日(1256年11月13日) |
改名 | 資家→覚保/覚深(法名) |
官位 | 従三位、左中将 |
主君 | 安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 藤原北家道綱流楊梅庶流 |
父母 | 父:藤原定能、母:源通家の娘 |
兄弟 | 親能、定季、資家、定玄、定乗、粟田口忠良室、坊門信清室、源定忠室、源兼忠室、大宮局、定観、斎院女房宣旨、殷富門院六条局、持明院家行室、順徳院女房大納言局 |
子 | 資季 |
経歴
編集琵琶で著名な権大納言藤原定能の三男として生まれる。三男であったため非参議従三位までしか昇進できなかったが、子の資季は権大納言まで昇進することができた。資季は『徒然草』第135段に登場するほか、日記『荒涼記』(資季卿記)を残した。
官歴
編集以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 文治5年(1189年)1月5日 叙爵(氏)
- 建久元年(1190年)1月24日 越中守
- 建久2年(1191年)12月30日 叙従五位上
- 建久6年(1195年)12月9日 任侍従
- 建久8年(1197年)1月5日 叙正五位下
- 建久9年(1198年)1月30日 任右少将[1]
- 建仁3年(1203年)1月5日 叙従四位下(少将は元の如し)
- 元久元年(1204年)11月21日 大歌所別当
- 承元元年(1207年)1月5日 叙従四位上[2]
- 承元3年(1209年)1月5日 叙正四位下(宜秋門院当年御給)。同年10月30日 復任[3]。
- 承元4年(1210年)1月14日 任右中将。同年9月28日 左中将に遷任
- 建保5年(1217年)4月9日 左中将を辞任[4]
- 建保6年(1218年)3月6日 叙従三位
- 元仁元年(1224年)5月 出家
- 康元元年(1256年)10月25日 薨去。享年75。