持明院家行
鎌倉時代前期の公卿。持明院基宗の次男。母はあるいは上西門院帥局(昌玄(僧正)の娘、子に持明院基能)。正三位・権中納言。持明院家5代
持明院 家行(じみょういん いえゆき)は、鎌倉時代前期の公卿。非参議・持明院基宗の次男。官位は正三位・権中納言。
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 安元元年(1175年) |
死没 | 嘉禄2年2月17日(1226年3月16日) |
改名 | 家能→家行 |
別名 | 藤原家行 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 持明院家 |
父母 | 父:持明院基宗、母:昌玄の娘[1] |
兄弟 | 基能、家行、家隆、宗雲、宗全、宗子 |
妻 | 藤原定能の娘 |
子 | 家定、基長、別当典侍、藤原頼経室 |
経歴
編集養和元年11月(1182年1月)従五位下に叙爵し、文治2年12月(1187年1月)備後守に任ぜられる。この頃、兄・基能が早世し嫡男となり、建久4年(1193年)淡路守を務める。
建久6年(1195年)従五位上に叙せられる。建久7年(1196年)備後守、正治元年(1199年)には紀伊守に遷任。正治2年(1200年)侍従に任ぜられ、同年の春日祭の饗においては前駈を務めた[2]。建仁4年(1204年)正五位下に叙せられる。元久2年(1205年)左近衛少将を務め、名を家能から家行に改めている。元久3年(1206年)従四位下に昇叙。承元5年(1211年)従四位上・左近衛中将に叙任され、建保2年(1214年)正四位下に進む。
建保6年(1218年)従三位に叙せられ公卿に列し、承久3年12月(1222年1月)参議に任ぜられる。承久4年(1222年)正三位・備後権守に叙任され、左衛門督・検非違使別当を兼帯。嘉禄元年(1255年)権中納言となる。
しかし、同年より腫物に悩まされ、左衛門督・検非違使別当を辞する。数箇月後には権中納言も辞退し、翌嘉禄2年(1226年)2月13日に出家、2日後の15日に薨去。享年52。
官歴
編集※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 養和元年11月30日(1182年1月6日):従五位下に叙す(上西門院平治元年未給)。時に家能。後に家行と改む。
- 文治2年12月14日(1187年1月25日):備後守に任ず。
- 建久4年(1193年)正月29日:淡路守に遷る(祖父基家卿申任之)。
- 建久6年(1195年)3月11日:従五位上に叙す(東大寺供養七条院院司賞)。
- 建久7年(1196年)正月28日:備後守に遷る。
- 正治元年(1199年)10月2日:紀伊守に任ず。
- 正治2年(1200年)
- 正月22日:侍従に任じ、守を兼ぬ。
- 2月3日:春日祭の饗の前駈を務む。
- 10月26日:守を止む。
- 建仁4年(1204年)正月5日:正五位下に叙す(前皇后宮去仁安三年大嘗會御給)。
- 元久2年(1205年)正月29日:左近衛少将に任ず。家行に改む。
- 元久3年(1206年)正月17日:従四位下に叙す。少將如元。
- 承元5年(1211年)/建暦元年
- 正月5日:従四位上に叙す(七条院当年御給)。
- 11月3日:左近衛中将に任ず。
- 建保2年(1214年)正月13日:正四位下に叙す。
- 建保6年(1218年)12月9日:従三位に叙す。中將を去る。
- 承久3年12月12日(1222年1月25日):参議に任ず。
- 承久4年(1222年)/貞応元年
- 正月24日:備前権守を兼ぬ。
- 8月2日:正三位に叙す(北白川院初入内賞)。
- 12月22日(1223年1月25日):左衛門督を兼ね、検非違使別當と為す。
- 貞応2年(1223年)5月:別當を辞す(依法皇御事)。月日:別當に還る。
- 嘉禄元年(1225年)
- 7月6日:権中納言に任ず。左衛門督別當如元。
- 11月19日:腫物の病に依り督別當を辞す。
- 12月22日(1226年1月21日):納言を辞す。
- 嘉禄2年(1226年)
- 2月13日:出家す(飲水所労)。
- 2月15日:薨ず。享年52。