藤原定季
藤原 定季(ふじわら の さだすえ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家道綱流、権大納言・藤原定能の次男。官位は正三位・非参議。
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 承安3年(1173年) |
死没 | 天福2年10月16日(1234年11月8日) |
改名 | 資能→定季 |
官位 | 正三位、非参議 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 藤原北家道綱流 |
父母 | 父:藤原定能、母:源通家の娘 |
兄弟 | 親能、定玄、定季、藤原資家 (従三位)、定乗、粟田口忠良室、坊門信清室、源定忠室、源兼忠室、大宮局、定観、斎院女房宣旨、殷富門院六条局、持明院家行室、順徳院女房大納言局 |
子 |
定宗、盛季、恩子 養子:親季 |
経歴
編集安元3年(1177年)従五位下に叙爵。文治2年12月(1187年1月)従五位上に進み、文治3年(1187年)右衛門権佐に任ぜられる。
文治5年(1189年)正五位下、建久3年(1192年)従四位下に叙せられる。建久5年12月(1195年2月)、名を資能から定季に改める。建久7年(1196年)従四位上、建仁2年(1202年)正四位下に昇叙し、承元元年(1207年)従三位に叙せられて公卿に列した。承元元年12月(1220年1月)正三位に進むが、天福2年(1234年)10月16日、散位のまま薨去。享年62。
人物
編集父・定能から篳篥を受け継いだ[1]。正治元年(1199年)11月の上皇御幸、正治2年(1200年)11月の上皇御幸、承元2年(1208年)8月2日、8日の御遊等で篳篥の演奏が確認できる[2]。
官歴
編集※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 安元3年(1177年)正月29日:従五位下(氏爵未給)。
- 文治2年12月17日(1187年1月28日):従五位上(院嘉応元年未給)。
- 文治3年(1187年)正月23日:右衛門権佐。
- 文治5年(1189年)正月28日:正五位下。
- 建久3年(1192年)正月5日:従四位下。
- 建久5年12月24日(1195年2月5日):資能を改め定季とす。
- 建久7年(1196年)11月5日:従四位上(父八幡賀茂行幸賞譲)。
- 建仁2年(1202年)11月19日:正四位下(殷富門院御給)。
- 承元元年(1207年)11月29日:従三位(信清卿造最勝寺四天王院賞譲)。
- 承久元年12月13日(1220年1月20日):正三位。