菅沼定用
菅沼 定用(すがぬま さだもち)は、江戸時代中期の交代寄合。三河国新城領3代領主。
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 元禄14年(1701年) |
死没 | 明和5年3月21日(1768年5月7日) |
改名 | 定孝→定用→常心(法名) |
別名 | 鍋太郎、藤次郎、大膳、新八郎、織部 |
官位 | 従五位下織部正 |
幕府 | 江戸幕府交代寄合 大番頭、伏見奉行、側衆、駿府城代 |
主君 | 徳川家継、吉宗、家重、家治 |
藩 | 三河新城領主 |
氏族 | 菅沼氏 |
父母 | 父:菅沼定易、母:松平忠継の娘 |
兄弟 | 定用、定由 |
妻 | 戸田光規娘(松平光慈養妹) |
子 | 酒井忠順室、本堂親房室(松平忠名養女)、定庸、奥田高甫室、定冬、菅沼定寛室、定候、戸田光稟室、伊東祐程室、女子 |
経歴
編集菅沼定易の子として生まれ、元文元年(1736年)4月27日に家督を継ぐ。元文2年(1737年)11月21日に大番頭となり、12月16日に従五位下織部正に叙任される。延享3年(1746年)3月1日に伏見奉行となり、宝暦元年(1751年)10月15日に側衆となる。宝暦10年(1760年)4月1日より二ノ丸に勤め、宝暦11年(1761年)将軍徳川家重の死去により役を解かれる。宝暦12年(1762年)11月1日、再び側衆となり、徳川家基の附属となった。明和2年(1765年)11月15日に駿府城代となり、明和5年(1768年)2月21日、駿府において68歳で死去。
系譜
編集参考文献
編集- 『寛政重脩諸家譜』第2輯,國民圖書,1923. 国立国会図書館デジタルコレクション 340コマ目 https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/340 (参照 2024-06-25)