荒井盛従
荒井 盛従(あらい もりより)は、江戸時代の武士。仙台藩重臣。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保8年(1723年) |
死没 | 寛政2年2月6日(1790年3月21日) |
改名 | 今田彦五郎→荒井盛従 |
別名 |
仮名:三郎、加右衛門 字:子政 号:桃蹊 |
墓所 | 松林院(宮城県仙台市若林区) |
主君 | 伊達吉村→宗村→重村 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 今田氏→荒井氏 |
父母 |
父:今田定通 養父:荒井盛武 |
兄弟 | 今田定陳、盛従 |
妻 | 正室:荒井盛武の娘 |
子 |
女子(荒井盛典室) 養子:盛典(川島行直の子) |
生涯
編集享保8年(1723年)、仙台藩士・今田定通の二男として生まれる。幼名は彦五郎。跡取りのいなかった荒井盛武の婿養子に迎えられ、荒井氏を継ぐ。
荒井氏は会津の戦国大名蘆名氏の庶流で、蘆名盛詮の四男・盛信が大沼郡荒井(現:会津美里町荒井)に拠って荒井氏を称し、天正17年(1589年)に蘆名氏が摺上原の戦いに敗れて滅亡した際に、荒井盛次(万五郎)が伊達政宗に降伏し臣従した。盛従の入った家は寛永年間に分かれた分家で、盛従の代には宮城郡朴沢に居館を置き、500石を知行していた。
延享4年(1747年)9月、世子・伊達重村付となり、宝暦6年(1756年)に重村が家督を相続して第7代藩主となると、近習から目付・町奉行・出入司・江戸番頭を経て若年寄まで昇り、召出二番坐の家格を与えられて門閥に列し、50石を加増されている。
盛従は世子時代からの側近として重村から重用され、宝暦13年(1763年)の一門涌谷伊達氏のお家騒動(いわゆる「山寺十左衛門悪逆一件」)や、安永2年(1790年)の安永疑獄などの重大事件の審理を任せられている。
武鑑掲載情報
編集人物・逸話
編集脚注
編集- ^ 『仙台人名大辞書』42頁
参考文献
編集- 平成『仙台市史』通史編5〔近世3〕(宮城県仙台市、2004年)
- 菊田定郷『仙台人名大辞書』(仙台人名大辞書刊行会、1933年)
- 『伊達世臣家譜』第二輯(仙台叢書刊行会、1937年)
- 橋本博『改訂増補大武鑑』中巻(名著刊行会、1965年)