茨城師範学校
茨城師範学校 (いばらきしはんがっこう) は、1876年および第二次世界大戦中の1943年 (昭和18年) に、茨城県に設置された師範学校である。
本項は、茨城県師範学校・茨城県女子師範学校などの前身または関係諸校を含めて記述する。
概要
編集沿革
編集旧・茨城県立、新治県立期
編集小学師範学校、拡充師範学校
編集茨城県立期
編集小学師範学校、拡充師範学校
編集旧・茨城師範学校
編集- 1876年4月: 拡充師範学校を茨城師範学校と改称。小学師範学校を分校とする。
- 入学資格: 18歳-35歳。
- 1876年8月: 初代専任校長 国分行道 就任。
- 1877年1月: 水戸 上市滝岡町 (現・金町、水戸地方気象台付近) の新校舎に移転。
- 師範生 (2年制、18歳-35歳対象)・女子師範生 (3年制、13歳-30歳)・速成師範生・予備師範生 (4年制、14歳-20歳) を置く。
- 1879年7月: 土浦分校を廃止 (茨城県立土浦第一高等学校・附属中学校も参照のこと)。
- 1880年7月: 予備科を廃止し、茨城中学校を創設 (現在の茨城県立水戸第一高等学校)。
- 1880年9月: 女子師範科・速成師範科を廃止。
- 1882年4月: 師範学校教則大綱に準拠。初等師範科・中等師範科を設置。
- 1885年7月: 高等師範科 (4年制) を設置。
茨城県尋常師範学校
編集- 1886年10月: 師範学校令により茨城県尋常師範学校と改称 (本科4年制)。
- 1888年5月: 水戸城跡の新校舎に移転 (現・水戸市三の丸)。
- 1890年10月: 天皇行幸で宿舎となる。
- のちに10月26日を行幸記念日に定めた。
茨城県師範学校
編集- 1898年4月: 師範教育令により茨城県師範学校と改称。
- 1906年5月: 全寮生徒による同盟脱出事件発生。
- 卒業生初任給の引き下げに抗議し、浜口庄吉校長の排斥を要求。
- 生徒処分: 首謀者5名 退学、学級代表9名 1年間停学、他全員 50日間停学。
- 1908年4月: 本科第一部 (4年制)・本科第二部 (1年制、中学卒対象)・乙種講習科 (2年制) を設置。
- 1909年10月: 校歌制定。『東の空 あかつきに』 (太田匡一郎 作詞、片岡亀雄 作曲)。
- 1925年5月: 本科第一部を 5年制に変更。専攻科を設置。
- 1933年11月: 明治天皇行在所跡として史蹟指定。
- 1939年4月: 大陸教員養成科を設置 (1943年3月廃止)。
- 1939年5月: 男子師範・女子師範合同で 『綜合郷土研究 (上・中・下)』 を刊行。
茨城県女子師範学校
編集- 1903年5月: 茨城県立水戸高等女学校 (現・茨城県立水戸第二高等学校) に茨城県女子師範学校併設。
- 修業年限3年。初代校長事務取扱: 枝徳二。初代校長: 本田嘉種 (1904年2月 - ? )
- 1908年4月: 本科4年制となる。
- 1910年: 本科第二部 (1年制、高女卒対象) を設置。
- 1911年4月: 水戸市寺町 (現・金町、水戸市立五軒小学校) の新校舎に移転。
- 1925年5月: 本科第一部を 5年制に変更。本科第二部を 2年制に延長。
- 1925年9月: 校歌制定。『常磐の里の園に咲く』 (渡辺殻 作詞、岡野貞一 作曲)。
- 1926年5月: 専攻科を設置。
- 1929年11月21日: 昭和天皇が行幸[1]。
官立期
編集茨城師範学校
編集- 1943年4月1日: 茨城県師範学校・茨城県女子師範学校を統合し、官立茨城師範学校設置。
- 旧茨城県師範学校校舎に男子部、旧茨城県女子師範学校校舎に女子部を設置。
- 初代校長: 磯野清。
- 1945年7月17日: 生徒動員先の日立電線工場、アメリカ軍の艦砲射撃で被災。
- 教官1名、生徒12名死亡。
- 1945年8月2日: 水戸空襲で男子部・女子部ともに校舎全焼。
- 1945年10月: 女子部授業再開 (那珂郡勝田町大字武田の日立兵器工場附属青年学校校舎)。
- 1945年11月: 男子部授業再開 (稲敷郡阿見町の海軍気象学校跡)。
- 1946年5月: 女子部附属国民学校、水戸高等学校焼跡に移転。
- 1947年2月: 男子部、土浦市大岩田町の旧海軍航空要員研究所跡に移転。
- 現・茨城県立土浦第三高等学校校地。
- 1947年4月: 男子部・女子部の各附属小学校に新制中学校を併設。
- 5月: 男子部附属小学校・中学校、旧所在地 (三の丸) に再建。
- 1948年10月: 女子部が土浦に移転。男子部・女子部を統合。
- 1949年5月31日: 新制茨城大学発足。
- 茨城師範学校は青師と共に教育学部の母体として包括された。
- 茨城師範学校校地は土浦分校 (1951年3月廃止) となった。
- 1949年6月: 女子部附属小学校・中学校、水戸市愛宕町の旧陸軍東部第42部隊跡に移転。
- 現・水戸市文京、茨城大学教育学部附属中学校所在地。
- 1949年9月: 附属校改称。
- 男子部附属小学校・中学校 → 附属水城小学校・中学校。
- 女子部附属小学校・中学校 → 附属愛宕小学校・中学校。
- 1951年3月: 茨城大学茨城師範学校 (旧制)、廃止。
歴代校長
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- 茨城県師範学校(前身諸校を含む)
- 松木直己:1881年5月18日 (中学校長兼務:〜85年10月)[2]
- 松木直己:1886年11月16日[3] - 1888年4月24日[4]
- 渡瀬寅次郎:1888年5月9日 - 1889年6月28日[5]
- 越智直:1892年4月1日 - 1895年7月8日
- 小早川潔:1895年7月8日 - 1897年12月28日
- 大田義弼:1898年1月17日 - 1899年6月28日
- 山田禎三郎:1899年6月28日 - 1900年4月26日
- 田口虎之助:1900年4月26日 - 1901年7月5日
- 鈴木亀寿:1901年7月5日 - 1903年2月16日
- 浜口庄吉:1903年7月25日 - 1906年12月6日
- 中村豊吉:1906年12月6日 - 1913年6月20日
- 高藤太一郎:1913年6月20日 -
- 茨城県女子師範学校
- 茨城師範学校
校地の変遷と継承
編集- 茨城師範学校男子部
前身の茨城県師範学校から引き継いだ水戸市二の丸 (現・三の丸2丁目) の校地を使用した。同校地は 1945年8月の空襲で壊滅し、第二次世界大戦後の授業再開時に、稲敷郡阿見町の海軍気象学校跡に移転した。水戸への復帰は経済上の問題から断念し、1947年2月にはさらに土浦市大岩田町の海軍航空要員研究所跡に移転した (附属小学校は同窓会の尽力により旧校地に再建となった)。1948年10月には女子部も土浦に移転し、男子部・女子部が統合された。
後身の新制茨城大学教育学部発足時は、旧・師範学校側と新・教育学部側とで折り合いがつかず、旧師範学校は土浦に残存し教育学部土浦分校となった (地元、土浦市が水戸移転に反対したためともされる。一方、教育学部は水戸市愛宕町 [現・文京] の旧陸軍第37部隊兵舎 [現・水戸キャンパス] で発足した)。1951年3月の茨城師範学校廃止により土浦分校は廃止された。
現在、水戸市三の丸の旧校地は茨城県立水戸第三高等学校・茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園の校地となっている。旧土浦校地は茨城県立土浦第三高等学校の校地となっている。
- 茨城師範学校女子部
前身の茨城県女子師範学校から引き継いだ水戸市寺町 (現・金町) の校地を使用した。同校地は 1945年8月の空襲で壊滅し、第二次世界大戦後の授業再開時には、那珂郡勝田町大字武田 (現・ひたちなか市) の日立兵器工場附属青年学校校舎を仮校舎として使用した。1948年10月、女子部は男子部校地 (土浦) に移転し、男子部・女子部が統合された。
旧寺町校地は現在、水戸市立五軒小学校の校地となっている。
著名な出身者
編集脚注
編集出典
編集- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、68頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ 国立公文書館「京都府属八代規外八名尋常師範学校長被任ノ件(履歴書付)」明治19年11月16日。
- ^ 尋常師範学校官制に基づく任命。
- ^ 国立公文書館「茨城県尋常師範学校長松木直巳依願本官被免ノ件」明治21年4月24日。
- ^ 国立公文書館「茨城県尋常中学校長渡瀬寅次郎外一名尋常師範学校長ニ転任ノ件(履歴書付)」明治21年5月9日、及び「茨城県尋常師範学校長渡瀬寅次郎依願免官ノ件」明治22年6月28日。
- ^ 『官報』第3199号、大正12年4月2日。
- ^ 『官報』第4865号、昭和18年4月2日。
- ^ a b 『官報』第5664号、昭和20年11月28日。
- ^ a b 永井道明先生後援会『遺稿 永井道明自叙伝』大空社〈伝記叢書 36〉、1988年3月17日、91頁。全国書誌番号:88039498
関連書籍
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 茨城大学教育学部 - 後身校
- 茨城師範女子部跡記念碑 - ウェイバックマシン(2007年9月28日アーカイブ分) - 水戸市立五軒小学校サイト