紫原
紫原(むらさきばる[3])は、鹿児島県鹿児島市の町丁[4]。郵便番号は890-0082[5]。人口は22,597人、世帯数は10,844世帯。(2020年4月1日現在)[6]。紫原一丁目から紫原七丁目まであり、紫原一丁目から紫原七丁目までの全域で住居表示を実施している[7]。
紫原 | |
---|---|
町丁 | |
鹿児島テレビ放送(KTS) | |
北緯31度33分25秒 東経130度32分11秒 / 北緯31.556989度 東経130.536478度座標: 北緯31度33分25秒 東経130度32分11秒 / 北緯31.556989度 東経130.536478度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 鹿児島県 |
市町村 | 鹿児島市 |
地域 | 中央地域 |
地区 | 鴨池地区 |
人口情報(2020年(令和2年)4月1日現在) | |
人口 | 22,597 人 |
世帯数 | 10,844 世帯 |
郵便番号 | 890-0082 |
市外局番 | 099 |
ナンバープレート | 鹿児島 |
運輸局住所コード[2] | 46500-0952 |
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1877年(明治10年)の西南戦争では鹿児島方面最大の激戦となる「紫原の戦い」が現在の紫原付近で勃発し激戦地となった[8]。1956年(昭和31年)に紫原団地として造成に着手し[9]、1970年(昭和45年)に町丁として設置された[4]。2010年(平成22年)の国勢調査によれば鹿児島市で最も人口の多い住宅団地となっている[10]。
地理
編集皇徳寺台や、桜ケ丘、星ヶ峯、西陵などに代表される鹿児島市の住宅街のうちの一つで、鹿児島大学郡元キャンパスの南西の紫原台地(シラス台地)に位置している。町域の北方には田上台、北方から東方にかけては唐湊、東方には南郡元町、南新町、日之出町、南方から西方にかけては宇宿、西方には田上町及び広木に接している。
町域の北部には鹿児島市立紫原中学校、南東部には鹿児島市立紫原小学校、南西部には鹿児島市立西紫原小学校が所在している。また鹿児島市立西紫原中学校は隣接する西紫原町に位置している。
また中央部には鹿児島テレビ放送(KTS)の本社が所在し、県内のテレビ局と鹿児島シティエフエム(フレンズFM)の送信所(親局)が設置されている(鹿児島親局テレビ・FM放送所)。
地名の由来
編集紫原という地名は現在の紫原付近が田上村、郡元村、宇宿村の村境の原に位置していたことに由来するという説がある[9]。
丁目
編集紫原に設定されている丁目の大まかな位置を表で示す。表の上部が北方向である。
紫原七丁目 | ||
紫原五丁目 | 紫原六丁目 | |
紫原四丁目 | 紫原二丁目 | 紫原一丁目 |
紫原三丁目 |
歴史
編集前史
編集紫原では古くより畑作を中心に耕作が行われており、現在の宇宿、鴨池、郡元、田上に跨る丘陵地であった。紫原の台地は中世頃よりしばしば戦場となっていたとされる[4]。
正平9年(1364年)には島津氏久と畠山治部太輔国長が紫原の地で交戦し[11]、天文6年(1537年)には小野での戦いで川辺へ逃げた島津実久がのち島津貴久・島津忠良(日新公)と紫原で交戦し、実久を忠良(日新公)が破った[11]。2年後の天文8年(1539年)には再び実久と徒党を組んでいた谷山城の城主禰寝氏を討つため谷山に向かっていた島津貴久が禰寝氏の軍と紫原の地で交戦し、島津貴久が勝利した。これによって谷山の地は平定された[11]。
江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』には前述の天文8年の戦について以下のように記述している[12]。
紫原 郡本村の野岡にて、牛落の西に續けり、天文八年、己亥、三月十三日、大中公兵を發し、谷山の賊を討つ、是時谷山は叛臣島津八郎左衛門尉實久が侵地にて、谷山本城城主禰寝播摩守、大軍を率て紫原に迎へ戰ふ、公是を敗り、播摩守以下數住人を斬獲し、進んで谷山を定めゐふ、
—三国名勝図会巻之七
1877年(明治10年)、日本最後の内戦となった西南戦争の際に紫原で勃発した「紫原の戦い」は鹿児島方面最大の激戦となった[8]。薩軍の今給黎久清が鹿籠(現在の枕崎市)の新兵123名を率いて涙橋西方の高地を占拠していたが、6月24日に官軍は紫原の薩軍を総攻撃した[11]。官軍は武之橋から谷山街道を南下する隊と脇田から船で上陸し背面から紫原に登る隊の2隊に分かれて攻撃を行った[11]。薩軍は善戦したが脇田から上陸した隊に背面から攻撃されたことにより薩軍は退却し、紫原は官軍が占領した[13]。この戦いで官軍(大日本帝国陸軍及び東京警視本署の連合軍)兵士約300名、薩軍(旧薩摩藩士らから構成される所謂西郷軍)武士約60名の死傷者を出した[8]。
紫原の開発と町名としての紫原
編集紫原団地は鹿児島市内の住宅団地造成の先駆けとなり、1956年(昭和31年)に宅地造成に着手した[9][14]、開発前は標高70メートルの丘陵地帯の農地であったが、鹿児島市住宅協会による宅地造成が行われ、1960年(昭和35年)には紫原台地において宅地開発を目指す「紫原地区土地区画整理事業」として都市基盤の整備に着手した[15]。1966年(昭和41年)に開発が概ね完了し[16]、土地区画整理事業としては1975年(昭和50年)まで事業が行われた[15]。土地区画整理事業の事業面積は145.7ヘクタール、総事業費7億5,600万円であった[15]。
1963年(昭和38年)には、急速に市街地が形成された紫原の区域が鹿児島市によって都市計画法における用途地域「住居地域」に指定された[17]。1968年(昭和43年)には鹿児島テレビ放送の社屋の起工式が行われ、翌年1969年(昭和44年)に竣工した[18]。
1970年(昭和45年)7月1日に紫原団地の区域にあたる宇宿町、鴨池町、郡元町、田上町の各一部より分割され、鹿児島市の町丁として紫原一丁目から紫原七丁目までが設置された[4]。丁目別の詳細は郡元町の一部及び鴨池町の一部より「紫原一丁目」、鴨池町の一部及び宇宿町の一部より「紫原二丁目」、宇宿町の一部より「紫原三丁目」、「紫原四丁目」、「紫原五丁目」、宇宿町の一部及び鴨池町の一部並びに田上町の一部より「紫原六丁目」、田上町の一部及び宇宿町の一部より「紫原七丁目」がそれぞれ設置された[19]。また、鹿児島市では初めてとなる丁目制が採用され、同時に住居表示が実施された[19][20]。
その後、紫原地区土地区画整理事業は1975年(昭和50年)8月27日に換地処分が実施され、1984年(昭和59年)には事業が完了した[21]。総事業費は1億5500万円であった[21]。1985年(昭和60年)の国勢調査では鹿児島市内の団地別人口では最も多く、人口は21,788人であった[22]。また、人口の増加に伴って教育施設の整備も行われ、1965年(昭和40年)に紫原小学校[23]、1967年(昭和42年)に紫原中学校[24]、1970年(昭和45年)には西紫原小学校[25]の3校が相次いで設置された。
1990年(平成2年)3月1日には宇宿町の一部が紫原三丁目、鴨池町の一部が紫原六丁目に編入された[26][27]。1993年(平成5年)3月1日には宇宿町の一部を紫原四丁目に編入[28][26]、1999年(平成11年)に宇宿町の一部が紫原三丁目の一部に編入された[29][30]。また、2011年(平成23年)2月14日には宇宿中間・広木地区(第二期)の住居表示が実施され、宇宿町の一部を紫原五丁目に編入した[29][31]。
町域の変遷
編集実施後 | 実施年 | 実施前 |
---|---|---|
紫原一丁目(新設) | 1970年(昭和45年) | 郡元町(一部) |
鴨池町(一部) | ||
紫原二丁目(新設) | 鴨池町(一部) | |
宇宿町(一部) | ||
紫原三丁目(新設) | 宇宿町(一部) | |
紫原四丁目(新設) | ||
紫原五丁目(新設) | ||
紫原六丁目(新設) | 宇宿町(一部) | |
鴨池町(一部) | ||
紫原七丁目(新設) | 田上町(一部) | |
宇宿町(一部) | ||
紫原三丁目(編入) | 1990年(平成2年) | 宇宿町(一部) |
紫原六丁目(編入) | 鴨池町(一部) | |
紫原四丁目(編入) | 1993年(平成5年) | 宇宿町(一部) |
紫原三丁目(編入) | 1999年(平成11年) | |
紫原五丁目(編入) | 2011年(平成23年) |
人口
編集丁目別
編集世帯数 | 人口 | |
---|---|---|
紫原一丁目 | 1,669 | 3,318 |
紫原二丁目 | 1,370 | 2,700 |
紫原三丁目 | 2,047 | 4,525 |
紫原四丁目 | 1,290 | 2,720 |
紫原五丁目 | 1,599 | 3,339 |
紫原六丁目 | 1,630 | 3,331 |
紫原七丁目 | 1,239 | 2,664 |
全体
編集以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
年 | 人口 |
---|---|
1995年(平成7年)[33] | 23,847
|
2000年(平成12年)[34] | 24,607
|
2005年(平成17年)[35] | 23,745
|
2010年(平成22年)[36] | 23,198
|
2015年(平成27年)[37] | 22,893
|
施設
編集公共
編集教育
編集- 志學館大学[43]
- 鹿児島市立紫原中学校[44]
- 鹿児島市立紫原小学校[45]
- 鹿児島市立西紫原小学校[45]
- カトリック・カリタス幼稚園[46]
- 紫原幼稚園[46]
- 鹿児島女子短期大学附属かもめ幼稚園[46]
郵便局
編集報道
編集宗教
編集- カトリック教会
- 鹿児島めぐみ教会(キリスト教プロテスタント教会)
- 最福寺
小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[49]。
町丁 | 番・番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
紫原一丁目 | 全域 | 鹿児島市立紫原小学校 | 鹿児島市立紫原中学校 |
紫原二丁目 | 全域 | ||
紫原三丁目 | 全域 | 鹿児島市立西紫原小学校 | 鹿児島市立西紫原中学校 |
紫原四丁目 | 全域 | ||
紫原五丁目 | 全域 | ||
紫原六丁目 | 全域 | 鹿児島市立紫原小学校 | 鹿児島市立紫原中学校 |
紫原七丁目 | 全域 | 鹿児島市立広木小学校 |
交通
編集鉄道
編集鉄道の最寄り駅は南鹿児島駅(指宿枕崎線・鹿児島市電1系統)、指宿枕崎線郡元駅や鹿児島市電の二軒茶屋電停も利用できる。
道路
編集- 市道
-
- 紫原本通り線(鹿児島県道35号永吉入佐鹿児島線~国道225号)[50]
- 高麗通線[16]
バス
編集- 鹿児島市交通局(令和2年4月1日より鹿児島交通が引き継ぎ)
-
- 3番 玉里・西紫原線 : 交通局北営業所前 - 玉里団地 - 市役所前 - 鹿児島中央駅 - 天神南 - 紫原七丁目 - 紫原三丁目
- 15(-1)番 東紫原線 : 水族館前・市役所前 - 市立病院前 - 郡元 - 紫原陸橋 - 紫原 - 西紫原中学校前 - 紫原 - 市役所前・水族館前(循環)
- 15-2番 東紫原線(中央駅) : 市役所前 - 鹿児島中央駅 - 神田 - 東紫原陸橋 - 紫原
- 15-3番 東紫原線(広木農協) : 市役所前 - 郡元 - 紫原陸橋 - 紫原 - 広木農協前
- 18番 大学病院線(市役所前直通):市役所前 - 鹿児島中央駅 - 鹿大正門前 - 東紫原陸橋 - 紫原 - 大学病院 - 桜ケ丘五丁目
- 19番 南紫原線 : 市役所前 - 鴨池 - 日之出町 - 紫原三丁目 - 紫原
- 最終の紫原発は、交通局止まり。
- 23番 紫原・武町線 : 広木農協前 - 紫原 - 紫原七丁目 - 武町 - 鹿児島中央駅西口 - 鹿児島アリーナ前 - 西高校前 (循環)
- 41番 紫原・武岡台高校線 : 紫原三丁目 → 前ヶ迫 →(以降直通・無停車)→ 武岡台高校前 (片道のみ運行)
- ※登校日朝 月 - 金 朝1便のみ運行(これに限らず休校日は運休)
- 鹿児島交通
-
- 15番線 深夜バス : 鹿児島駅前 - 紫原中央 - 鹿児島駅前(循環)※毎週金・土のみ運行
- 19番線 紫原・桜ケ丘線 : 高速船ターミナル・鹿児島駅前 - 鹿児島中央駅 - 田上 -紫原七丁目 - 紫原 - 大学病院 - 桜ケ丘五丁目
- 深夜バス : 高速船ターミナル - 鹿児島中央駅 - 田上 -紫原七丁目 - 紫原 - 大学病院 - 桜ケ丘五丁目※毎週金・土のみ運行
- 22番線 オプシア線 : 鹿児島駅前 - 田上 - 紫原七丁目 - 紫原中央 - 紫原三丁目 - オプシア前
- 24番線 森山団地線 : 高速船ターミナル - 鹿児島中央駅 - 田上 - 大牧 - 田上団地 - 広木住宅 - 森山団地 - 西紫原中正門前 - 森山団地 - 高速船ターミナル(循環)
- 高速船ターミナル発は、西中正門前止まりのバスもある。
脚注
編集- ^ “日本 町字マスター データセット”. デジタル庁 (2022年3月31日). 2022年4月29日閲覧。
- ^ “自動車登録関係コード検索システム”. 国土交通省. 2021年4月26日閲覧。
- ^ “鹿児島市の町名”. 鹿児島市. 2020年10月25日閲覧。
- ^ a b c d 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 618.
- ^ “鹿児島県鹿児島市紫原の郵便番号”. 日本郵便. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)”. 鹿児島市 (2020年4月1日). 2020年5月8日閲覧。
- ^ “住居表示実施区域町名一覧表”. 鹿児島市 (2020年2月3日). 2020年6月28日閲覧。
- ^ a b c 鹿児島県 1941, p. 973.
- ^ a b c 豊増哲雄 1996, p. 137.
- ^ 南日本新聞 2015, p. 899.
- ^ a b c d e 鹿児島市 1935, p. 337.
- ^ 橋口兼古, 五代秀堯 & 橋口兼柄 1843.
- ^ 鹿児島市 1935, p. 338.
- ^ 南日本新聞 1990, p. 768.
- ^ a b c 鹿児島県 2006, p. 476.
- ^ a b 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 740.
- ^ 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 732.
- ^ 南日本新聞 1990, p. 984.
- ^ a b “かごしま市民のひろば” (pdf) (1970年7月1日). 2020年11月7日閲覧。
- ^ 南日本新聞 1990, p. 778.
- ^ a b 南日本新聞 1990, p. 774.
- ^ 南日本新聞 1990, p. 822.
- ^ 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 944.
- ^ 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 949.
- ^ 南日本新聞 1990, p. 870.
- ^ a b 南日本新聞 2015, p. 828.
- ^ “かごしま市民のひろば1990年 (平成2年11月号) 第282号” (pdf). 鹿児島市(鹿児島市広報デジタルアーカイブ). 2012年4月13日閲覧。
- ^ 町の区域の変更(平成5年鹿児島県告示第324号、平成5年2月26日付鹿児島県公報第603号所収)
- ^ a b 南日本新聞 2015, p. 829.
- ^ 平成11年鹿児島県告示第466号(町の区域の変更、平成11年3月23日付鹿児島県公報第1456号所収)
- ^ “宇宿中間・広木地区(第二期)住居表示実施について”. 鹿児島市. 2011年2月8日閲覧。
- ^ “年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)”. 鹿児島市 (2020年4月1日). 2020年5月8日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成7年国勢調査 小地域集計 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成12年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成17年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成22年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成27年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “交番・駐在所等の所在地・電話番号”. 鹿児島県警察. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “紫原福祉館”. 鹿児島市. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “西紫原福祉館”. 鹿児島市. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “桜の花見が楽しめる公園”. 鹿児島市. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “駐車場がある公園”. 鹿児島市. 2020年11月7日閲覧。
- ^ 南日本新聞 2015, p. 974.
- ^ 南日本新聞 2015, p. 951.
- ^ a b 南日本新聞 2015, p. 950.
- ^ a b c 南日本新聞 2015, p. 942.
- ^ “鹿児島紫原一郵便局”. 日本郵便. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “鹿児島紫原五郵便局”. 日本郵便. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “小・中学校の校区(学区)表”. 鹿児島市役所. 2020年9月26日閲覧。
- ^ 鹿児島市史編さん委員会 1970, p. 739.
参考文献
編集- 鹿児島県「鹿兒島縣史 第三巻」『鹿児島県史』第3巻、1941年9月30日。, Wikidata Q111311706
- 鹿児島県『鹿児島県史 第六巻 上巻』鹿児島県、2006年。
- 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史Ⅱ』 2巻、鹿児島市、1970年3月25日 。, Wikidata Q111372706
- 南日本新聞『鹿児島市史Ⅳ』 4巻、鹿児島市、1990年3月15日 。, Wikidata Q111372875
- 南日本新聞『鹿児島市史Ⅴ』 5巻、鹿児島市、2015年3月27日 。, Wikidata Q111372912
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会「角川日本地名大辞典 46 鹿児島県」『角川日本地名大辞典』第46巻、角川書店、日本、1983年3月1日。ISBN 978-4-04-001460-9。, Wikidata Q111291392
- 豊増哲雄『古地図に見る かごしまの町』春苑堂出版、1996年。ISBN 4-915-09337-9。
- 鹿児島市『鹿児島地誌』鹿児島市、1935年。NDLJP:1223620
- 橋口兼古、五代秀堯、橋口兼柄 著、島津久光 編『三国名勝図会』薩摩藩、1843年。NDLJP:992133