粟谷益二郎
粟谷 益二郎(あわや ますじろう、1890年(明治23年)11月11日 - 1927年(昭和32年)9月18日)は、能楽師(シテ方喜多流)である[1]。
概説
編集1890年(明治23年)、粟谷新三郎の孫として広島県に生まれる[1][2]。祖父に能楽の指導を受け、1901年(明治31年)、『花月』で初舞台[1]。1904年(明治34年)に上京、1905年(明治35年) 十四世喜多六平太の内弟子第1期生となり、1905年(明治36年)「舎利」で初のシテ方を務めた[1]。1917年(大正6年)シテ方喜多流として独立する[1]。1941年(昭和16年)に病気で一時舞台を退いたが、1946年(昭和21年)再起、地頭の名手として活躍した[1]。四子が家芸を継承した[1]。長男は粟谷新太郎、二男は人間国宝の粟谷菊生、三男は粟谷辰三、四男は粟谷幸雄である[3]。なお、姪は歌手のペギー葉山[3]。孫に能楽師を継いでいる粟谷能夫、粟谷明生らがいる[3]。
脚注
編集外部リンク
編集- "粟谷能の会". 2024年12月28日閲覧。