米津 政懿(よねきつ まさよし)は、江戸時代後期の大名出羽国長瀞藩2代藩主。官位従五位下伊勢守越中守

 
米津政懿
時代 江戸時代後期
生誕 天明8年(1788年
死没 嘉永6年11月25日1853年12月25日
改名 三太郎・勘兵衛(幼名)、政懿
墓所 東京都東久留米市前沢の米津寺
官位 従五位下伊勢守越中守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶家定
出羽長瀞藩
氏族 米津氏
父母 米津通政
兄弟 政懿中山信敬養女ら
堀親寚
森忠賛
中山信敬
政饒政易
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略歴

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天明8年(1788年)、初代藩主・米津通政の長男として誕生した。正室は堀親寚娘、継室は森忠賛娘、継々室は中山信敬娘。

寛政5年(1793年)12月3日、世子となる。寛政11年(1799年)12月8日の父の隠居により跡を継ぎ、文化3年(1806年)12月16日に叙任する。

嘉永6年(1853年)11月25日、死去。享年66。

始め政饒松平忠翼の六男)を養嗣子としたが跡を継ぐことはなく、家督はその後養嗣子となった政易酒井忠器の十男)が継いだ。

墓所は東京都東久留米市米津寺内にある米津家大名墓所(東京都指定史跡)[1]

系譜

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父母

正室、継室

養子

出典

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  1. ^ 久留米の文化財第22号”. 東久留米市. 2020年3月15日閲覧。