笈川 武夫おいかわ たけお[1]1905年明治38年〉[注釈 2]6月25日 - 1960年昭和35年〉4月4日[2])は、日本の俳優である[3][4]。本名は春野 武雄(はるの たけお)[3][4]及川 武夫と表記に揺れがある。日本初のテレビ時代劇『半七捕物帳』の主役として知られる[2]。妻は元松竹の舞台女優で、村田嘉久子村田竹子と共に「帝劇三姉妹」といわれた村田みね子である[2]

おいかわ たけお
笈川 武夫
笈川 武夫
1936年の写真、満31歳。
本名 春野 武雄はるの たけお
別名義 及川 武夫
生年月日 (1905-06-25) 1905年6月25日
没年月日 (1960-04-04) 1960年4月4日(54歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市芝区南佐久間町[注釈 1]
職業 俳優
ジャンル 新派新劇新国劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間 1925年 - 1960年
配偶者 村田みね子
主な作品
半七捕物帳
テンプレートを表示

来歴・人物

編集

1905年(明治38年)6月25日東京府東京市芝区南佐久間町[注釈 1]に生まれる[3][4]芝愛宕小学校を経て旧制芝中学校(現在の芝中学校・高等学校)に入学[3]。卒業後、海軍兵学校の入学試験を受けるも不合格となり、早稲田大学に進学する[3]。しかしそれでも諦められず、再び海軍兵学校を受験して合格したが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で実家及び学校は全焼した[3]

1925年(大正14年)4月、震災直後に日比谷音楽堂で公演された新国劇の舞台『勧進帳』を鑑賞したのをきっかけに俳優を志し、笈川武夫という芸名で畑中蓼坡伊澤蘭奢御橋公らが所属していた新劇協会に入る[3]。同年5月、白鳥座で初舞台を踏む[3]。この芸名は「笈を背負ひて、川を渡る」が由来であるという[3]。同年末、新劇協会の一同と共に作家直木三十五が設立しマキノ・プロダクションが提供した聯合映画芸術家協会を経て1926年(昭和元年)には帝国ホテル演芸場の舞台に出演する[3]。また、諸口十九一座と浅草公園劇場で競演した時期もある[3]。ところが、新劇協会の経営を巡る問題で畑中と対立し、間も無く脱退[3]。その後、岡田嘉子竹内良一山田巳之助元安豊等の諸劇団に入るも馴染めず、1928年(昭和3年)、新劇協会に復帰したが、赤字経営が続き間も無く解散する[3]

1929年(昭和4年)4月、新築地劇場を脱退した土方与志丸山定夫薄田研二山本安英細川ちか子等によって創立された新築地劇団に入る[3][4]。旗揚げ公演に先立って、武蔵野館から映画のアトラクションに少人数の芝居を上演してほしいと申し込まれ、準備公演としてニコライ・エヴレイノフ作『心の劇場』を上演し、笈川も助演[4]。更に同年5月には、片岡鉄兵作『生ける人形』にも出演して、後に正式な劇団員となった[3][4]

1931年(昭和6年)4月、新築地劇団の関西公演が行われ、フセヴォロド・プドフキン作『アジアの嵐』が上演された後、戦旗座主催の講習会が開かれ、講師として出席。同年10月、東京左翼劇場が結成した日本プロレタリア劇場同盟プロット第4回全国大会が開催し、笈川は中央執行委員に選出され、以後、全国でプロレタリア演劇の普遍化に尽力する[3][4]。さらに同年11月、日本共産青年同盟に加入し、劇団内にフラクションを形成した[4]

1932年(昭和7年)1月、新築地劇団の関西新春公演が関西のプロット系の劇団の援助によって行われ、ウラジミル・キルション作『風の街』が上演され、笈川も出演[4]。同年3月、プロットの拡大中央委員会が開かれたが、たまたま臨席していた官憲により突然中止させられる[4][3]。同年、綜合プロレタリア文化団体日本文化プロレタリア文化聯盟が結成するに及び、笈川は両劇団の常任中央執行委員になる[3]。しかし、既にプロット指導部に対する弾圧が強まっており、笈川は関西中国地方公演の途中で検束された[3][4]

釈放後は一時芸能界から離れていたが、1933年(昭和8年)8月、市川小太夫新興座に入る[3]。しかし、新興座は同年10月に解散[3]。同年12月からは寺田靖雄と共に関西新派に移り、1934年(昭和9年)1月、都築文男梅の井秀雄山口俊雄中田正造らと角座で一座を結成する[3]。同年3月、プロット大阪支部が解体され、同年4月に劇団自由舞台が旧プロット員と松竹の演劇会社によって結成されたのを機会にこれに参加したが、一度も舞台に立つことは無かった[4]。1937年(昭和12年)、寺田と共に新生劇場を創設した[4]。1940年(昭和15年)、国策に協力するために、関西演劇文化協会が設立されたが、笈川はそのどちらにも関係した[4]

戦後は新国劇に所属していたが、1952年(昭和27年)10月に退団[2][5]。その後は東宝を中心に活躍し、多くの作品に出演[2]。また、テレビドラマの出演もあり、テレビ放送開始間もない頃に日本放送協会で放送された、日本初のテレビ時代劇として知られる『半七捕物帳』で主演を務めるほか、多くの作品に脇役や主役として活躍した[2]

しかし、1959年(昭和34年)9月5日から1960年(昭和35年)1月9日まで放送された東京放送(現在のTBSテレビ)系列のテレビドラマ『朝焼け富士』以降の出演記録が見当たらない[4]。以後の消息は不明とされていたが、2013年(平成25年)8月1日に出版された『蓼科日記 抄』の1960年(昭和35年)4月9日の文中にて、笈川の未亡人(元女優村田みね子、1898年 - 1962年)から同年4月4日死去の通知があったと云う旨が記されている[2]。満54歳没。

出演作品

編集

聯合映画芸術家協会

編集

全て製作は聯合映画芸術家協会、配給はマキノ・プロダクション、全てサイレント映画である。

東宝

編集

特筆以外、全て製作・配給は「東宝」、全てトーキー、特筆以外は全て「笈川武夫」名義である。

テレビドラマ

編集
  • 不漁期』:監督山口淳日本放送協会、1953年2月25日放映 - 親方(主演)
  • 半七捕物帳』:日本放送協会 - 三河町の半七(主演)
    • 『むらさき鯉』:監督永山弘、1953年7月1日放映
    • 『十五夜御用心』:監督永山弘、1953年9月16日放映
    • 『帯取りの池』:監督永山弘、1954年1月28日放映
    • 『ゆきだるま』:監督永山弘、1954年2月18日放映
    • 『張子の虎』:監督永山弘、1954年3月25日放映
    • 『お化け師匠』:監督永山弘、考証岸井良衛、1954年5月21日放映
  • 怠ける権利』:監督畑中庸生、日本放送協会、1953年7月8日放映 - 越智先生(主演)
  • ハレ・アカラ』:日本放送協会、1953年7月18日放映 - マカリイ
  • NTV劇場日本テレビ
    • 『霜夜狸』:1953年9月15日放映
  • 帰郷』:日本放送協会、1953年11月5日放映 - 主演
  • 四つの靴下』:日本放送協会
    • 第4話『サンタクロース閣下』:1953年12月24日放映
  • 帰国』:日本放送協会、1954年1月14日放映[注釈 4]
  • 三番手の発破』:日本放送協会、1954年2月11日放映
  • 結婚記』:監督永山弘、日本放送協会、1954年4月29日放映 ※NHK初の1時間ドラマ
  • 江戸の影法師』:監督石川甫宮武昭夫喜多島武成東京放送、1955年10月21日 - 1956年2月24日放映
  • 五文叩き』:日本放送協会、1956年2月2日放送
  • 野郎どもと女探偵』:日本放送協会
    • 第二回:1956年5月12日放映
  • 半七捕物帖』:監督石川甫、瓜生孝、宮武昭夫、東京放送、1956年5月3日 - 1956年12月27日放映
  • 海風が吹けば』:監督永山弘、日本放送協会、1956年5月7日 - 1956年7月30日 - 主演
  • 忠臣蔵の人々』:監督山本隆則、東京放送、1956年11月3日 - 1957年12月26日放映
  • ウロコ座:東京放送
    • 第18回『与三郎』:1956年12月10日放映
    • 第79回『今様薩摩歌 前篇』:1958年2月17日放映
    • 第80回『今様薩摩歌 後篇』:1958年2月24日放映
    • 第118回『馬がものいう 前篇』:1958年11月17日放映
    • 第119回『馬がものいう 後篇』:1958年11月17日放映
  • お好み日曜座:日本放送協会
    • 『故郷の声』:1958年7月6日放映[注釈 5]
    • 『あやつり組由来記』:監督井上博、1958年11月2日放映
    • 『土ねこ記』:1959年6月21日放映
  • 事件記者』:日本放送協会
    • 第15回『影なき男 前篇』:監督若林一郎、1958年7月9日放映
  • 少年航路』:日本テレビ
  • 東芝日曜劇場:東京放送
    • 第81回『朝顔物語』:1958年6月15日放映
    • 第109回『冬の人』:1958年12月28日放映
    • 第144回『ひとり娘』:1959年8月30日放映
  • 女人哀詩』:監督梅本重信、日本放送協会、1959年5月1日放映
  • NEC劇場:東京放送
    • 『朝焼け富士』:監督飯島敏宏、1959年9月5日 - 1960年1月9日放映

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ a b 現在の東京都港区新橋及び西新橋辺り。
  2. ^ 1901年説もあり[2]
  3. ^ 「及川武夫」名義[6][7]
  4. ^ 「笈川武雄」と誤植。
  5. ^ 「笈田武」と誤植。

出典

編集
  1. ^ a b c
  2. ^ a b c d e f g h 『蓼科日記 抄』「蓼科日記」刊行会、2013年、316-317頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『俳優大鑑』歌舞伎書房、1936年、159-161頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『近代日本社会運動史人物大事典(1)』日外アソシエーツ、1997年、553頁。 
  5. ^ 『朝日新聞』昭和27年11月3日付。
  6. ^ 笈川武夫 MovieWorker
  7. ^ 笈川武夫 映画.com
  8. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 528, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  9. ^ 初代ゴジラ研究読本 2014, p. 113, 「オール初代ゴジラ 俳優大図鑑」

参考文献

編集
  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 
  • 『別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2014年8月24日。ISBN 978-4-8003-0452-0 

関連項目

編集

外部リンク

編集