空海 (映画)

1984年公開の日本映画

空海』(くうかい)は、1984年(昭和59年)4月14日公開の日本映画カラービスタサイズドルビーステレオ映倫番号:111185。

空海
監督 佐藤純彌
脚本 早坂暁
原案 上村正樹
坂上順
佐藤雅夫
製作 高岩淡
中村義英
全真言宗青年連盟(企画)
上村正樹(プロデューサー)
坂上順(同上)
佐藤雅夫(同上)
斎藤一重(同上)
出演者 北大路欣也
加藤剛
小川真由美
西郷輝彦
西村晃
丹波哲郎
森繁久彌
音楽 ポール・バックマスター
玉木宏樹
ツトム・ヤマシタ
撮影 飯村雅彦
編集 市田勇
製作会社 東映
全真言宗青年連盟映画製作本部
配給 東映
公開 日本の旗 1984年4月14日
上映時間 179分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 16億円[1]
テンプレートを表示

概要

編集

弘法大師空海入定1150年を記念して全真言宗青年連盟映画(以下、全青連)製作本部が東映と提携して製作[2][3]真言宗は50年ごとに一大布教活動を展開しており、本作品もその一環となった[4]。全青連が映画公開前に前売り券200万枚を完売させ[3][5]、これが総額で20億円とも[3]、24億円ともいわれ[4]、公開前から大きな興行保障を実現させた[3][6]。この影響もあって総製作費には12億円の巨費が投ぜられ[3]、当時のままの遣唐使船を建造した他[3][7]、空海が密教を授けられた地である中国西安に大ロケーションが敢行された[8][9]

キャスト

編集

スタッフ

編集

製作

編集

本作品の製作クレジットは高岩淡、中村義英とするものが多いが、実質は岡田茂東映社長と全青連である[10]。高岩・中村は、それぞれ資金を分担した東映と全青連からそれぞれ組織の代表者として名を連ねているだけである[10]。またプロデューサーとしてクレジットされている上村正樹、坂上順、佐藤雅夫、斎藤一重のうち、上村は全青連、他の3人は東映の社員で、それぞれ所属する組織が企画立案した作品の製作現場に配属された形となっている[10]。その仕事はシナリオ作成時にブレーンとして参加し、そのシナリオに基づいて予算を組み、その枠内でスタッフと契約、俳優の出演交渉をし、対外折衝や製作時に起こる種々の問題処理を行うものであった[10]

企画

編集

1980年に真言宗の十八本山の若手僧侶が全青連を組織し[11]、その統一見解として空海の映画を作りたいと製作が始まった[11][12][13]

監督

編集

岡田裕介が監督に増村保造を迎え[11]、脚本・早坂暁で製作を進め[11][13]1982年夏に監督・増村保造、主演・北大路欣也と最初の製作発表があった[14][15]。しかし早坂が体調を崩し入院し、脚本が遅れたため[11]、他のキャスティングができなかった[14][16]。当初は1982年秋に撮影を開始し、1983年7月に中国ロケを行い、8月に撮影を終了させ、1984年4月14日に公開するという予定であった[17]。しかし1982年中に撮影に入れず、今度は1983年5月クランクインと報道もされ、この時も監督・増村保造と発表していたが[14]、クランクインされず。実際は増村は1982年に降りたと見られ[11]佐藤純彌東映京都撮影所で1982年12月から1983年1月の間に『人生劇場』を撮っているときに[11]岡田茂東映社長に急に呼び出され[11]、「お前、『空海』やれ」と言われ「はあ?」と監督を交代した、と佐藤は話している[11]。中国ロケがあることなど諸般の事情で佐藤に変更になったといわれる[18]

脚本

編集

早坂は当初[11]、「"空海、七つの冒険"みたいなことをやろうか」と構想を立てていたが[11]、体調を崩したこともあり、なかなか脚本が上がらず、佐藤らで司馬遼太郎原作の『空海の風景』を基本にして脚本の枠をまとめた[11]。全青連の中村義英本部長は「映画とはいえ、おもしろおかしくては困りますので、私たちも製作に関わらせていただいております」と牽制[4]、脚本の段階で「あまり生なましい表現は避けてほしい」「全面的に削除して下さい」などの要請があった[11][19]

キャスティング

編集

主役は最初に勝新太郎が挙がっていたが[17]、「空海を演じる人は身辺のきれいな人。いろんな先入観を持たれている人では困る」との要望が全青連から出され、主役は北大路欣也になった[17]。勝は当時、"事件屋"のイメージが付いていた[17]。妖しくも絢爛たる炎の女・薬子を演じるのは小川真由美。当初の脚本では男女の営みも面白く書き込んであり、小川はそこが気に入っていたが、スポンサーの意向でカットされたという[20]

撮影

編集

プロデューサーの坂上順が空海と同郷で、空海の知識もあり、ロケハンなど精力的に動いた[11]遣唐使船も一隻だけだが一億円かけて実寸大のものを製作した[11]

1983年7月14日、クランクイン[18]。9月9日第一期撮影が終了[18]。その後、佐藤監督らが1か月に渡り、中国でロケハンとエキストラなどの協力依頼を行う[18]。岡田茂が中国に顔の効く徳間康快に頼み、徳間が中国ロケを側面サポートした[21]

中国ロケは1983年11月中旬から12月中旬を予定した[18]。中国ロケでは外貨が欲しい中国政府からエキストラのギャラをふっかけられた[22]。また中国ロケを取材するため訪中したジャーナリストたちが1日2回、友誼商店という外国人向けのおみやげ店に案内され辟易した[22]

編集など

編集

佐藤がエンディングロールの途中でお客に席を立たれるのが悔しくて、オープニングクレジットを今日の映画のエンディングロールと同じくらい長くしている[11]。映画も約3時間と長く、初公開時は途中休憩を挟んだ[11]

宣伝

編集

全青連は口も出すがその分カネも用意し、前売り券200万枚を東映に印刷するよう指示し[4]、その全てを引き受け、映画公開までに全て売り切った[3][4]。東映宣伝部では「マッコウ臭い宗教映画としてではなく、日本版『十戒』、『ジーザス・クライスト・スーパースター』として見て頂きたい。文部省選定前ですから学校にもチケットを買ってもらっています」と吹聴したが[9]、東映は「早くも驚異の前売200万枚突破!」と新聞一面を割いて大広告を打った[9]。また全国600の書店とタイアップし「空海とマンダラ宇宙」ブックフェアを開催[9]。この時よく売れたのが陳舜臣作の『曼陀羅の人』(上下巻)で、2冊で10万部を突破した[9]。出版したTBSブリタニカでは「宗教書というより、空海を日本最初の国際人として捉えているので経済ビジネス関係の本の読者層とも合致した」と話した[9]。本作品の影響で空前の"空海ブーム"が興った[9]

弘法大師空海入定1150年を記念する遠忌が1984年4月1日に高野山の本山で行われることに合わせ[7]東京都八王子高尾山薬王院(真言宗)で1984年3月30日夜、『空海』のヒットを祈願し、真言宗僧侶40名による読経と映画の音楽を担当したツトム・ヤマシタの奏でるシンセサイザーレーザー光線を駆使した一大供音法要イベントが開催された[7]。薬王院がこうしたイベントに本堂本社を開放したのは開山天平16年(744年)以来初めてで[7]、費用1000万円[7]

興行

編集

本作品が公開された時期は、映画各社ともゴールデンウィーク前の捨て週間に当たり[23]、成績が良ければゴールデンウィーク興行に雪崩れ込むが、小松左京が並々ならぬ情熱を傾けた東宝の大作『さよならジュピター』は7億円の大赤字を出し上映打ち切り[23]中井貴一カーレースが売物の『F2グランプリ』に差し替えられたがこちらも大コケした[23]松竹清張ミステリー彩り河』も同様に成績不振で、"ゴールデン改め、ゴースト週間"などと揶揄されたが[23]、『空海』は唯一大ヒットを記録した[23]。岡田東映社長が「これぞ社運を賭けた大作。最低でも配収18億円は堅い」と豪語[23]。しかし全青連が前売り券を売り切ったのが大ヒットの理由で「東映の岡田商法」などという陰口が出た[23]。興行収入は16億円を挙げ、この年日本映画4位の大ヒット[1]。前売り200万枚の完売だと単純計算では24億円の売り上げであり[4]、総製作費が12億円のため[4](宣伝費を合わせて13億円)[9]、黒字はもっと出たといわれる[4]

評価

編集
  • 週刊平凡』1984年6月15日号「五ツ星採点表」、白井佳夫「なるべく人間的な宗教映画にしようと苦心しているが、結局は聖人伝記映画になった(6点/10点満点)」、藤枝勉「上映時間3時間という長さはそれほど感じないが、上段の構えに終始し、緩急に欠ける(7点/10点満点)」、渡辺祥子「わかりやすい歴史のお勉強。空海と最澄のホモっぽい争い(失礼!)には笑いました(6点/10点満点)」[24]
  • 本作品は2018年現在も真言宗の教材として使われているという[11]

逸話

編集

前述のように早坂が体調を崩し1年たっても脚本が出来ず[25]、『人生劇場』のオールラッシュを観るため京都に来た岡田がプロデューサーの坂上順と岡田裕介を呼びつけ「お前ら、何やってんだ。早坂代えろ ! 」と怒鳴りつけた[25]。坂上は「この映画の脚本には膨大な資料調べを必要ですし、脚本家を今から代えるのは時間的に無理です。それに『空海』は四国生まれの早坂さんしか書けないと思います」と言い返した。すると岡田は「お前は早坂のマネージャーか! 俺は会社を背負っているんだ。お前が腹切ったって、会社は助からんのだ。辞めちまえ! 」と一喝し部屋から出て行った[25]。坂上は縮み上がった。4か月後、早坂の脚本が完成し映画も大ヒット。岡田から早坂と坂上に「一緒に飯を食おう」と声がかかった。坂上はクビを言い渡されたのも同然だったので狐につままれた思いで、お店に出向くと岡田から「坂上君、今度は君と喧嘩したことが良かったな」と言われた[25]。喧嘩は相手を認めなければ出来ないことだから、岡田の「喧嘩した」の一言を、坂上は「お前をプロデューサーとして認めてやるよ」と最大限拡大解釈し、今までプロデューサーを続けてこられたと思っている、人の心を掴む人間性が岡田さんの魅力でした、と述べている[25]

北大路欣也は役作りのため高野山真言宗の僧侶として得度出家をし、四度加行を行い、不動護摩法の資格を取得した。

小川真由美は真言宗の尼僧として得度した。剃髪はしておらず、本人は女優業をやめたつもりではないとのことである。

漫画

編集

劇場公開にあわせて漫画『空海』が発表されている。画:中島徳博、作:早坂暁。ISBN 9784088581217

サウンドトラック

編集

ネット配信

編集

東映シアターオンライン(YouTube):2023年12月1日21:00(JST) - 同年同月15日20:59(JST)

参考文献

編集
  • 佐藤純彌、聞き手:野村正昭 + 増當竜也『映画監督 佐藤純彌 映画 (シネマ) よ憤怒の河を渉れ』DU BOOKS(原著2018年11月23日)。ISBN 978-4866470764

脚注

編集
  1. ^ a b 1984年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  2. ^ 活動屋人生 2012, p. 191.
  3. ^ a b c d e f g キネマ旬報』1984年4月下旬号、166-167頁。 
  4. ^ a b c d e f g h 「一二億円の黒字が約束された東映『空海』のご利益」『週刊文春』、文藝春秋、1983年6月23日号、29頁。 
  5. ^ 『キネマ旬報』1984年5月下旬号、174頁。 
  6. ^ ニッポンの「超大作映画」秘史が全部わかる!<直撃2・“ミスター超大作”佐藤純彌監督の回顧録>
  7. ^ a b c d e 「ZIG・ZAG大予想 真言宗僧侶40人が読経でヒット祈願 東映『空海』の評判」『週刊宝石』、光文社、1984年4月20日号、51頁。 
  8. ^ 『キネマ旬報』1984年3月下旬号、72-76頁。 
  9. ^ a b c d e f g h 「なぜか空前の"空海"ブーム」『週刊新潮』、新潮社、1984年3月29日号、15頁。 
  10. ^ a b c d シネマ遁走曲 1986, pp. 29–31.
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 映画よ憤怒の河を渉れ 2018, pp. 293–301.
  12. ^ 活動屋人生 2012, p. 195.
  13. ^ a b 空海 1984, pp. 195–202.
  14. ^ a b c 「雑談えいが情報」『映画情報』、国際情報社、1983年6月号、52頁。 
  15. ^ 「雑談えいが情報」『映画情報』、国際情報社、1982年9月号、24頁。 
  16. ^ シナリオ教室 ONLINE 映画プロデューサーから見た脚本家/坂上順さん
  17. ^ a b c d 「邦画新作情報」『キネマ旬報』1982年7月下旬号、184頁。 
  18. ^ a b c d e 「雑談えいが情報」『映画情報』、国際情報社、1983年11月号、60頁。 
  19. ^ 杉浦孝昭『おすぎのシネマトーク』シネ・フロント社、1986年、195-202頁。ISBN 4-915576-09-4 
  20. ^ 黒田邦雄「ザ・インタビュー 小川真由美」『キネマ旬報』1984年昭和59年)4月下旬号 120-123頁、キネマ旬報社、1984年。 
  21. ^ STIR(ステア)VOL.9 1983 AUTUMN【世界のホテル・バー8】『対談 徳間康快vs.中島ゆたか』 (PDF) 7頁 – STIR アーカイブ | HBA 一般社団法人 日本ホテルバーメンズ協会
  22. ^ a b 「雑談えいが情報」『映画情報』、国際情報社、1984年2月号、52頁。 
  23. ^ a b c d e f g 「"ゴールデン"改め"ゴースト週間"」『週刊新潮』、新潮社、1984年4月26日号、13頁。 
  24. ^ 「五ツ星採点表」『週刊平凡』1984年6月15日号、平凡出版、116-117頁。 
  25. ^ a b c d e 「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 岡田茂をめぐる七人の証言 坂上順」『キネマ旬報』2011年平成23年)7月上旬号 63-64頁、キネマ旬報社、2011年。 

参考文献

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集