穂積律之助

日本の工学者

穂積 律之助(ほづみ りつのすけ、1884年明治17年)8月13日[1] - 1959年昭和34年)2月23日[1])は、日本工学者大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将

ほづみ りつのすけ

穂積 律之助
1918年(大正7年)の穂積一家。後列中央が律之助。
生誕 1884年8月13日
大日本帝国の旗 大日本帝国東京府
死没 (1959-02-23) 1959年2月23日(74歳没)
日本の旗 日本東京都
職業 軍人、工学者
配偶者 あり
子供 磯野富士子
親戚
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経歴

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1884年に穂積陳重と妻歌子(渋沢栄一の長女)の次男として東京府に生まれる。栄一にとっては2番目の孫であった。1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学造船学科を卒業[2]海軍艦政本部部員、呉海軍工廠造船部長、艦政本部出仕、海軍技術研究所造船研究部長などを歴任し、1933年(昭和8年)に予備役に編入された[2]

その後、祖父・渋沢栄一が設立に関わった石川島造船所株式会社(現在のIHI)取締役・造船部長を務めた[2]

家族

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脚注

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  1. ^ a b 福川 2000, p. 335.
  2. ^ a b c 人事興信所 1943.
  3. ^ 榊茂夫 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)”. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学大学院法学研究科. 2021年2月27日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録』 第14版 下巻、人事興信所、1943年。全国書誌番号:48016237 
  • 福川秀樹 編『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年12月。ISBN 4-8295-0272-X