稲田清淳
稲田 清淳(いなだ きよあつ/せいじゅん、1866年 - 1905年2月12日)は、日本陸軍の軍人、政治家。最終階級は陸軍三等軍医(少尉相当官)。郡会議員(副議長)。正七位勲六等。
経歴
編集明治20年(1887年)医学を志し、大阪に出て内外の諸科を修めた。明治22年(1889年)医術開業試験に及第。明治27年(1894年)郷里に戻って開業する。明治29年(1896年)台湾に赴き公医に挙げられた。後郷里に戻って業に復す。
事務に精通していたため、郡会議員に選ばれ、其の副議長となった。
明治37年(1904年)日露戦争の際、官医員の募集に応じ第10師団に属して見習医官となる。まもなく三等軍医に任ぜられ、正八位に叙せらる。
史料(日野郡黒坂町・光明寺・稲田清淳墓碑)
編集- 明治三十八年二月十二日、三等軍医、正七位、稲田清淳病みて清国盛京省遼陽八里荘分医院に没す。享年四十歳、越えて二月十二日先塋の次に帰葬す。
- 君は稲田氏。伯耆の国日野郡黒坂村の人なり。人となり剛快にして細行に拘(こだ)はらず。夙(つと)に医学を志し、明治二十年大阪に遊びて内外の諸科を修む。二十二年内務省試[1]に応じて及第し允(ゆる)さるるを得たり。此より専ら公私の医務に任じ精勤を以て稱へらる。
- 二十一年郷に帰りて開業す。二十九年台湾に赴き、公医に挙げられ比須篤病原を究(きは)め、得る所少なからず。
- 後郷里に帰りて業に復す。君事務に精通するを以て郡会議員に選ばれ、其の副議長と為る。討露の役に官医員を召す。君奮起して募に応じ第十師団に属して見習医官と為る。未だ幾ばくもあらずして三等軍医に任ぜられ、正八位に叙せらる。時に三十七年十月なり。其の冬軍中に発瘟(はつをん)の虞(おそれ)[2]有り。
- 君命を奉じて高家屯に在り、診療に従事して日夕に寝食を忘る。療治室、避隔室等を設けて、防備具(つぶさ)に至れり。軍衆及び土民をして其の惨毒を治免せしむ。君積労の極遂(つひ)に其の気の感染する所と為りて、療養功無く終(つひ)に起(た)たず。
- 朝廷特に其の功を賞して位階を進め金を賜ふに若干を以てす。土人等も亦金を醵して寄贈すと云ふ。銘に曰く刀圭[3]もて衆を済(すく)ふ。何ぞ必ずしも戈を操らん。偉なるかな仁術。其の功も亦多なり。
脚注
編集参考文献
編集- 森納、安藤文雄『因伯杏林碑誌集釈』1983年、313-316頁。