秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1941年10月4日[1])は、日本の元俳優である[2][3][4][5][6][7][8][9]。本名同じ[3]サイレント映画の時代に、松竹蒲田撮影所阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画マキノ・プロダクション等が製作した現代劇に主演した、線の細い二枚目スターとして知られる[2][5][6]

あきた しんいち
秋田 伸一
秋田 伸一
1920年代の写真
本名
生年月日 (1899-11-25) 1899年11月25日
没年月日 (1941-10-04) 1941年10月4日(41歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市京橋区南新堀(現在の東京都中央区新川
職業俳優
ジャンル 劇映画現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1920年 - 1935年
主な作品
三朝小唄
祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖
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人物・来歴

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1899年明治32年)11月25日東京府東京市京橋区南新堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる[2][3][4]。実家は酒問屋であったとも[2]、醤油問屋であったともされる[3]。生年月日については、初期の資料である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十二年十月二十日」(1899年10月20日)と記されている[3]

育った町内にあった旧制・中央商業学校(のちの中央商科短期大学、2001年廃校)に進学、同学を卒業した後、1920年(大正9年)に小林喜三郎が代表を務める帝国興行に入社した[2][4]。その後、田中欽之が1922年(大正11年)に松竹蒲田撮影所を退社して設立した田中欽之プロダクションに移籍、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後には、帝国キネマ演芸に入社、同社が国際活映巣鴨撮影所を「帝国キネマ演芸東京撮影所」として製作した『山語らず』(監督青山杉作)に出演しており、同作が記録に残る最初の作品である[2][4][5][6]。同年、松竹蒲田撮影所に入社、1925年(大正14年)9月25日に公開された『一心寺の百人斬』(監督清水宏)で主演している[2][4][5][6]。『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、当時の趣味は登山、愛読書はエミール・ゾラの小説や総合雑誌改造』であった[3]

1926年(大正15年)9月、米国のユニヴァーサル映画と契約を結んだ、京都・太秦阪東妻三郎プロダクションが設立した「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」(阪妻・立花・ユ)に同年入社、1927年(昭和2年)6月10日に公開された『港の灯』(監督印南弘)では、主演した[2][4][5][6]。同作と同時期に阪妻・立花・ユは契約が解消されたため、秋田は、阪東妻三郎プロダクションが製作、一立商店が配給、同年8月に公開した『夜の怪紳士』(監督江川宇礼雄)に主演したのを最後に、太秦を去った[2][4][5][6]。太秦の時代は、自宅の二階を友人たちに開放するなど、見た目の繊細さに似合わぬ人の好さ、おおらかさに定評があった[2]。同年、東京に戻り、東京シネマ商会の文化映画等に主演し、ふたたび京都に戻って、1928年(昭和3年)、牧野省三が主宰するマキノ・プロダクションに入社した[2][4][5][6]

1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、秋田は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷實川芦雁桂武男市川新蔵津村博澤田敬之助河津清三郎五味國男小金井勝岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[10]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する[11]。同年3月27日に公開された『背広の弥次喜多』(監督人見吉之助)に主演したのを最後に、秋田は同社を退社する[2][5][6]。同社でも、現代劇に多く出演したが、同社の現代劇の脚本を多く書いた八田尚之と親友になった[12]。同社解散後、同社の監督であった金森萬象が設立した協立映画プロダクションに参加、1932年(昭和7年)5月1日に公開された『魔の上海』(監督金森萬象)に主演したり[5][6]、マキノの俳優であった津村博が設立した台湾プロダクションが同年に製作した『義人呉鳳』(監督千葉泰樹安藤太郎)に主演したりしていた[7]

1933年(昭和8年)、日活太秦撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、記録に残る同社での最初の出演作は、同年3月8日に公開された『蒼穹の門』(監督山本嘉次郎)で、以降、脇役に回る[2][4][5][6][8]。同社でも、多く現代劇に出演、八田尚之の脚本作にも多く出演した[2][5][6][8]。同時、同撮影所では、東京からキャリアが始まった者たちの「東京会」という仲間がいて、秋田、八田のほか、牛原虚彦三浦光雄林千歳犬塚稔らが参加したという[13]。1934年(昭和9年)、東京に日活多摩川撮影所が開業し、現代劇部は東京に移転、秋田も多摩川撮影所に異動になる[2][5][6][8]。1935年(昭和10年)3月、松竹蒲田撮影所を退社した重宗務が設立した東京発声映画製作所に移籍[2][4][5][6][8]、このとき、八田尚之を重宗に紹介し、八田は同社の企画脚本部長に招かれている[12]。満37歳の誕生日を目前にした1936年(昭和11年)9月23日に公開された、時代劇『研辰旅ごよみ』(監督重宗務)に藩主役で出演したが、同作以降の出演記録が見当たらない[4][5][6][8]岸松雄によれば、同時期に八田が退社し、八田が辞めるならば自分も辞めると同社を退社したとのことである[13]。以降の消息は不明[2][4]とされていたが、『都新聞』1941年(昭和16年)10月8日付の新聞によれば、引退後は東京府東京市芝区(現在の東京都港区}で料亭を経営していたが、去る10月4日夜に胃腸炎急性腹膜炎の併発症のため、数え年45歳で亡くなった[14]と報じられている。

2009年(平成21年)3月には、秋田が主演した『三朝小唄』のロケーション撮影を行った鳥取県東伯郡三朝町に、同作の製作80周年を記念して、秋田と相手役の岡島艶子の姿をモチーフにしたモニュメントが完成した[15]

フィルモグラフィ

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三朝小唄』(1929年)出演時(満29歳)のスチル写真。左は相手役の岡島艶子

クレジットは、すべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][16]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

帝国キネマ演芸東京撮影所

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製作は「帝国キネマ演芸東京撮影所」(巣鴨撮影所)、配給は「帝国キネマ演芸」、サイレント映画である[5][6]

松竹蒲田撮影所

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すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]

阪妻・立花・ユ

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特筆以外すべて製作は「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」、配給は「ユニヴァーサル映画」、すべてサイレント映画である[5][6]

東京シネマ商会

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特筆以外の製作・配給は「東京シネマ商会」、すべてサイレント映画である[6][9]

マキノプロダクション御室撮影所

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すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[5][6]

協立映画プロダクション

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サイレント映画である[5][6]

台湾プロダクション

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サイレント映画である[5][6]

日活太秦撮影所

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特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、特筆以外すべてサイレント映画である[5][6][8]

日活多摩川撮影所

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特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、配給は「日活」、すべてトーキーである[5][6][8]

東京発声映画製作所

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すべて製作は「東京発声映画製作所」、配給は「日活」、すべてトーキーである[5][6][8]

脚注

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  1. ^ 『都新聞』昭和16年10月8日付演芸欄。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r キネマ旬報社[1979], p.9.
  3. ^ a b c d e f g h アサヒ[1925], p.155.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 秋田伸一jlogos.com, エア、2013年6月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 秋田伸一日本映画データベース、2013年6月11日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq 秋田伸一、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月11日閲覧。
  7. ^ a b c 秋田伸一allcinema, 2013年6月11日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 秋田伸一日活データベース、2013年6月11日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h 五味國男東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月11日閲覧。
  10. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年6月11日閲覧。
  11. ^ 御室撮影所、立命館大学、2013年6月11日閲覧。
  12. ^ a b 佐藤[2007], p.479.
  13. ^ a b [1970], p.525-529.
  14. ^ 『都新聞』昭和16年10月8日付演芸欄。数え年45歳は誤植の可能性もあり、生年が正しければ数え年43歳である。
  15. ^ 映画「三朝小唄」80周年記念 モニュメント完成日本海新聞、2009年3月28日付、47NEWS, 2013年6月11日閲覧。
  16. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年6月11日閲覧。
  17. ^ 井上陽一の活弁映画シリーズ1神戸映画資料館、2013年6月11日閲覧。
  18. ^ 日本映画の発見I:無声映画時代、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月11日閲覧。
  19. ^ 植民地時代の台湾の記録山形国際ドキュメンタリー映画祭、2013年6月11日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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