吉田信三
吉田 信三(よしだ しんぞう、1903年12月4日 - 1972年12月1日)は、日本の映画監督、脚本家である。第二次世界大戦前の京都のインディペンデント映画会社「マキノ・プロダクション」の脚本および助監督からキャリアを始め、同社の解散まで同社に残り、嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)、新興キネマで監督をつとめるも、戦後は昔の仲間の作品の助監督をつとめた。寛プロで一時吉田 保次(よしだ やすつぐ)、戦後には豊田 栄(とよだ さかえ)と名乗った。
よしだ しんぞう 吉田 信三 | |
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別名義 | 吉田 保次、豊田 栄 |
生年月日 | 1903年12月4日 |
没年月日 | 1972年12月1日(68歳没) |
出生地 | 日本・京都府京都市 |
死没地 | 日本・京都府京都市 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
来歴・人物
編集1903年(明治36年)12月4日、京都市上京区西陣の商家に生まれる[1]。
マキノ・プロダクション御室撮影所の脚本部に入社、1927年(昭和2年)ごろには同僚の社堂沙汰夫こと山中貞雄とともに過ごし、ふたり共同で現代劇の脚本『街かど行進曲』を書き、当時すでに俳優・助監督から映画監督としてデビューしていたマキノ正博に読ませたところ、高い評価を得たものの、当時の同社では映画化はできないと脚本は返却された[1]。
1928年(昭和3年)4月のスター俳優総退社事件の折にも同社に残り、1929年(昭和4年)の『浪人街 第二話 楽屋風呂第一篇』では5歳下のマキノ正博の助監督をつとめ、同年、人見吉之助監督にオリジナル脚本が採用され、『剣士弥源太』で脚本家としてデビューした。1931年(昭和6年)5月の同社の解散まで残り、同年、同社の古参監督の金森万象が設立した「協立映画プロダクション」の設立に参加、第1作の脚本を書いた。協立映画も早々に行き詰まって解散し、翌1932年(昭和7年)、金森が市川右太衛門プロダクションで監督した『甚内俄か役人』の脚本を書いている。
同年、嵐寛寿郎プロダクションに入社、マキノ同窓の並木鏡太郎監督の『御家人桜』の脚本を書き、その後も並木や山本松男らの脚本を書いているうちに、1934年(昭和9年)、『鞍馬天狗 地獄の門』で監督としてデビューした。その後も監督・脚本作は少ないが、1936年(昭和11年)に「吉田保次」と改名してからは、監督作が増えた。
1938年(昭和13年)、新興キネマ京都撮影所に入社、このころはすでにすべてトーキーの時代に入った。名はもとの本名に戻した。年間4-5本は監督することができたが、1941年(昭和16年)1月、新興キネマの大映への合併の際に同社を退社した[1]。
戦争が終わって6年が経ち、高村正次の「宝プロダクション」に、47歳にして脚本家兼助監督として入社した[1]。ただし名義は「豊田栄」を用いた。元マキノの中川信夫や、盟友だった山中貞雄の弟子の萩原遼の実弟の萩原章、あるいは大曾根辰夫を脚本と演出の現場で支えた。同社は早晩に崩壊する。1955年(昭和30年)には同社と提携していた新東宝で、山中貞雄の甥の加藤泰が萩原遼と共同監督した作品をチーフ助監督として支えたほか、並木鏡太郎に声をかけられ、助監督として手伝ったりした[1]。すでに吉田は50代であった。
その後、マキノ真三・宮城千賀子の「宮城千賀子プロダクション」に入社して舞台の仕事をし、晩年は大阪府枚方市で菊人形の舞踊振付を仕事としていた。1972年(昭和47年)12月1日、京都市内の自宅で心不全のため死去した[1]。誕生日直前の68歳没。
フィルモグラフィ
編集マキノ・プロダクション御室撮影所
編集- 1929年
- 浪人街 第二話 楽屋風呂第一篇 助監督 監督マキノ正博、原作・脚本山上伊太郎、撮影三木稔、主演南光明、津村博、根岸東一郎、河上君栄
- 浪人街 第二話 楽屋風呂解決篇 監督補佐 監督マキノ正博、原作・脚本山上伊太郎、撮影三木稔、主演南光明、津村博、根岸東一郎、河上君栄
- 剣士弥源太 原作・脚本 監督人見吉之助、撮影吉田俊作、主役沢田敬之助、松浦築枝 ※脚本家デビュー作
- 1930年
- 祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖 監督補・脚本 監督金森万象、原作長田幹彦、脚色東艸之介、撮影松浦茂、主演秋田伸一
- 次郎長旅日記 第一篇 脚本 監督吉野二郎、原作神田伯山、撮影吉田俊作、主演南光明、松浦築枝
- 嵐山小唄 しぐれ茶屋 脚本 監督金森万象、原作長田幹彦、撮影若宮広三、主演秋田伸一
- 1932年 - マキノ崩壊後
- 猿飛漫遊記 前後篇 脚本 監督金森万象、撮影松浦茂、出演沢田慶之助 ※1931年製作 ※協立映画プロダクション
- 甚内俄か役人 脚本 監督金森万象、原作下村悦夫、撮影下村健二、主演市川右太衛門 ※市川右太衛門プロダクション
嵐寛寿郎プロダクション
編集- 1932年 脚本
- 1933年 脚本
- 丸橋忠弥 原作・脚本 監督山本松男、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎
- 銭形平次捕物控 富籤政談 監督山本松男、原作野村胡堂、撮影三浦茂樹、主演嵐寛寿郎
- 山を守る兄弟 前篇 脚本・助監督 監督並木鏡太郎、原作大佛次郎、撮影藤井春美、主演嵐寛寿郎
- 山を守る兄弟 後篇 脚本・助監督 監督並木鏡太郎、原作大佛次郎、撮影藤井春美、主演嵐寛寿郎
- 銭形平次捕物控 復讐鬼 監督山本松男、原作野村胡堂、撮影三浦茂樹、主演嵐寛寿郎
- 黄金騎士 前篇 陽に叛くもの 監督白井戦太郎、原作土師清二、撮影藤井春美、主演嵐寛寿郎
- 右門捕物帖 三十五番手柄 越後獅子の兄弟 監督山本松男、原作佐々木味津三、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎
- 磧の霧 滝の与平次 監督山本松男、原作湊邦三、撮影藤井春美、主演嵐寛寿郎
- 相馬の金さん 監督山本松男、原作岡本綺堂、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎
- 1934年
- 右門捕物帖 三十八番手柄 白矢・黒影・青空 脚本 監督山本松男、原作佐々木味津三、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎
- 鞍馬天狗 地獄の門 監督・脚本 原作大佛次郎、撮影野村金吾、主演嵐寛寿郎 ※サウンド版、監督デビュー作
- 1935年
- なりひら小僧 春霞八百八町 原作・脚本 監督・録音マキノ正博、共同脚本山本松男、撮影野村金吾、主演嵐寛寿郎 ※トーキー
- 文武太平記 監督 脚本如月敏、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎 ※サウンド版
- 1936年 監督 - 「吉田保次」名義
- 破れ合羽 監督・脚本 原作湊邦三、撮影野村金吾、主演嵐寛寿郎 ※サウンド版
- 又太郎大明神 監督・脚本 原作長谷川伸、撮影野村金吾、主演嵐寛寿郎 ※サウンド版
- 鳴門秘帖 前篇 本土篇 監督 原作吉川英治、脚本白谷一夫、撮影野村金吾、主演嵐寛寿郎 ※トーキー
- 1937年 監督 - 「吉田保次」名義
- 鳴門秘帖 鳴門篇 監督 原作吉川英治、脚本白谷一夫、撮影野村金吾、主演嵐寛寿郎 ※トーキー
- 右門捕物帖 木曽路の謎 監督・脚本 原作佐々木味津三、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎 ※トーキー
新興キネマ京都撮影所
編集※以下すべてトーキー
- 1938年
- 1939年 監督
- 出世餅 藤堂高虎 脚本原健一郎、撮影広田晴巳、主演大谷日出夫
- 妻恋信州城 原作・脚本稲田不可止、撮影原義勝、主演市川男女之助
- 左甚五郎 原作・脚本松本常男、撮影竹野正恒、浪曲京山華千代、主演市川男女之助
- 里見八犬伝 原作曲亭馬琴 脚本神脇満、撮影原義勝、主演大谷日出夫
- 1940年 監督
- 天野屋利兵衛 原作・脚本武田昌夫、撮影竹野治夫、主演羅門光三郎
- 槍の権三 原作・脚本稲田不可止、撮影原義勝、主演大友柳太郎
- 金毛狐 原作・脚本松本常男、撮影竹野治夫、主演鈴木澄子
- 千両役者 原作・脚本日夏英太郎、撮影日下雅夫、主演市川男女之助
- 忠孝染分手綱 脚本石橋浜太郎、撮影竹野治夫、主演鈴木澄子
- 1941年 監督
- 大石山鹿護送 脚本波多謙治、撮影日下雅夫、主演南条新太郎
- 江戸の紅葵 原作野村胡堂、脚本波多謙治、撮影与吉宥、主演大友柳太郎
- 羅生門 原作・脚本丹下知嘉美、撮影牧田行正、主演鈴木澄子、月形龍之介
- 花丸小鳥丸 原作大仏次郎、脚本八尋不二、撮影牧田行正、主演嵐寛童、羅門光三郎
宝プロダクション
編集- 1951年 脚本・助監督 - 「豊田栄」名義
- 右門捕物帖 片眼狼 製作竹井諒・金田良平、監督中川信夫、原作佐々木味津三、撮影河崎喜久三、音楽鈴木静一、主演嵐寛寿郎 ※綜芸プロダクション・新東宝
- 神変美女峠 監督萩原章、原作山手樹一郎、撮影藤井春美、主演黒川弥太郎、宮城千賀子、大友柳太郎 ※新東宝提携
- 神変美女峠 解決篇 又四郎笠 監督・共同脚本萩原章、原作山手樹一郎、撮影藤井春美、主演黒川弥太郎、市川春代、花井蘭子、大友柳太郎 ※新東宝提携
- 鞍馬天狗 鞍馬の火祭 脚本のみ 製作小倉浩一郎・杉山茂樹、監督大曾根辰夫、原作大仏次郎、撮影片岡清、主演嵐寛寿郎、黒川弥太郎、美空ひばり、岸惠子 ※松竹京都撮影所
新東宝
編集- 1955年 助監督 - 「豊田栄」名義
脚注
編集関連項目
編集- マキノ・プロダクション (牧野省三)
- 協立映画プロダクション (金森万象)
- 市川右太衛門プロダクション (市川右太衛門)
- 嵐寛寿郎プロダクション (嵐寛寿郎)
- 新興キネマ
- 宝プロダクション (高村正次)
- 松竹京都撮影所 (小倉浩一郎、杉山茂樹)
- 新東宝 (安達英三郎)
- マキノ真三、宮城千賀子