秋月 (駆逐艦)
秋月(あきづき)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[4]。秋月型一等駆逐艦の1番艦である。艦名は片桐大自の研究によれば秋の月の意味[5]。対空能力に優れた防空型駆逐艦として開発され、太平洋戦争(大東亜戦争)後半の艦隊防空を担当した。ソロモン諸島を巡る戦いでは、水雷戦隊旗艦として行動する事も多かった。
秋月 | |
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基本情報 | |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 秋月型駆逐艦 |
艦歴 | |
計画 | 1939年度④計画 |
起工 | 1940年7月30日 |
進水 | 1941年7月2日 |
竣工 | 1942年6月11日 |
最期 |
1944年10月25日沈没 北緯20度29分 東経126度30分 / 北緯20.483度 東経126.500度 |
除籍 | 1944年12月10日 |
要目(計画) | |
基準排水量 | 2,701英トン |
公試排水量 | 3,470トン |
全長 | 134.2m |
最大幅 | 11.6m |
吃水 | 4.15m |
ボイラー | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸、52,000馬力 |
速力 | 33.0ノット |
燃料 | 重油:1,080トン |
航続距離 | 18ノットで8,000海里 |
乗員 | 273名[1] |
兵装 |
1942年 65口径10cm連装高角砲 4基8門 九六式25mm機銃連装2基 61cm4連装魚雷発射管 1基 4門 (九三式魚雷8本) 九四式爆雷投射機2基 爆雷投下台水圧式2基・手動式4基 九五式爆雷 54個 短艇4 1944年[2] 65口径10cm連装高角砲 4基8門 九六式25mm機銃 3連装5基 同単装13挺 同単装取付座7基 13mm単装機銃4挺 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 (九三式魚雷8本) 九四式爆雷投射器2基 爆雷投下軌条2基 九五式爆雷 54個 短艇1 |
レーダー |
1944年[2] 21号電探1基 13号電探1基 |
ソナー |
九三式探信儀1基 (九三式水中聴音機1基)[3] |
艦歴
編集建造経緯
編集1939年(昭和14年)度の④計画による乙型一等駆逐艦の第104号艦として建造がはじまる。舞鶴工廠にて1940年(昭和15年)7月30日に起工[6][7]。5月15日、正式に秋月と命名[4]、一等秋月型秋月として登録される[8]。7月2日に進水[7]。同日附で佐世保鎮守府籍[9]。
同年9月12日に内示された『昭和17年度海軍戦時編制』によれば、秋月型3隻(秋月、照月、初月)で第25駆逐隊を編制予定[10]、第25駆逐隊は空母鳳翔および特設航空母艦2隻と『第七航空戦隊』を編制予定であった[11]。だがこの編制を実現する前に太平洋戦争が勃発したため、秋月型3隻(秋月、照月、初月)が鳳翔と実戦に参加する事はなかった。
1942年(昭和17年)3月20日、日本海軍は睦月型駆逐艦10番艦「三日月」・吹雪型駆逐艦6番艦「東雲」・陽炎型駆逐艦4番艦「親潮」艦長等を歴任した金岡国三中佐を秋月の艤装員長に任命する[12]。 5月20日、金岡(秋月)艤装員長は転任[13]。朝潮型駆逐艦6番艦「山雲」駆逐艦長古賀彌周次中佐が秋月初代駆逐艦長に任命された[14][15]。 「秋月」の完成(竣工)は5月25日を予定していたが、公試で主砲塔に不具合が判明し、6月中旬に延期[16]。 6月5日-6日、ミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡三隈を喪失。秋月は砲塔の不具合を解消しないまま急遽作戦に投入されることになり、完成予定日を繰り上げて6月11日に竣工した[17][18]。 同日附で警備駆逐艦[19]。竣工後ただちに実戦配備され、駆逐艦「朧」と共に第五航空戦隊の空母「瑞鶴」護衛を命じられた[20]。これは6月5日-6日のミッドウェー海戦で南雲機動部隊が壊滅したのち、アリューシャン列島方面でもアメリカ軍機動部隊出現の徴候があったため、北方部隊(第五艦隊基幹)を増強する必要があったからである[21]。 連合艦隊は珊瑚海海戦以降内地で待機していた「瑞鶴」とミッドウェー海戦から戻った駆逐艦「浦風」に対し、北方部隊第二機動部隊(龍驤、隼鷹、瑞鳳)編入を下令[22]。朧と秋月に対しては、北方へ向かう「瑞鶴」と「浦風」の往路護衛を指示した[22]。舞鶴を出港した「秋月」は横須賀へ向かう予定を変更して、そのまま呉へ移動[15][23]。 6月15日[23]に瑞鶴、朧、浦風、秋月は内地を出発し、途中キスカ島上空での敵重爆迎撃作戦発令と撤回などがあり時間をとられ、6月24日に大湊へ到着した[24][22]。同日附で秋月と朧は瑞鶴と浦風の護衛任務を解かれ東京湾方面部隊に編入[25]。2隻は横須賀に戻った[26][27]。
ガダルカナル島の戦い
編集6月29日[23]、本艦は横須賀を出港して鎌倉丸をマカッサルまで護衛し[28]、7月18日に横須賀へ帰投[26][29]。8月13日に「鳴門丸」を護衛して横須賀を発し、8月20日にニューアイルランド島カビエンに着いた[30]。翌21日にラバウルへ入港し機動部隊主隊に編入された[26][23]。 8月24日、日米機動部隊による戦闘が行われ、日本海軍は空母「龍驤」等を撃沈されて敗北した(第二次ソロモン海戦)。「秋月」が機動部隊に合流したのは戦闘終了後の8月25日であったという[23]。トラック泊地着後の9月8日、第十戦隊に編入[31]。9月26日、「秋月」および第9駆逐隊の駆逐艦朝雲、夏雲、峯雲は外南洋部隊に編入される[32]。ショートランド泊地へ移動後の9月29日[23]、来襲したB-17爆撃機3機のうち、1機を撃墜した(下記「秋月に関する通説」参照)[26]。10月3日以降、ガダルカナル島への輸送作戦(鼠輸送)に従事する[26]。 10月7日附で「秋月」と同型艦「照月」で第61駆逐隊(駆逐隊司令則満宰次大佐)が編成され[33][34]、あらためて第十戦隊に編入された[35]。ただし、「照月」は南雲機動部隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)に随伴して別行動であり、秋月と照月が2隻そろって機動部隊を護衛する機会は訪れなかった。
10月3日、水上機母艦「日進」、駆逐艦野分、舞風によるガダルカナル島輸送作戦が実施された[36]。輸送隊はアメリカ軍機の断続的な空襲を受けたため、急遽「秋月」に出撃命令が出される[37]。「秋月」は10月4日黎明にガ島から引き揚げてくる日進、野分、舞風と合流[38]。零戦や水上機部隊の掩護をうけつつ、ショートランドに帰投した[36]。また零式水上観測機1機がB-17重爆に特攻して撃墜、脱出した零観搭乗員2名は「秋月」に救助されている[36]。
10月7日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官(旗艦川内)より命令を受けた日進と秋月は、駆逐艦時雨、綾波、白雪、吹雪、叢雲と共に輸送作戦を実施することになった[39][40]。だが第11航空艦隊より、天候不良のため直衛の戦闘機派遣不能との連絡が入る[41]。日進と秋月はショートランド泊地へと避退[40][42]、「時雨」以下駆逐艦部隊のみでの輸送作戦となった[43][40]。 10月8日、日進による第2回ガダルカナル島輸送作戦が実施された[44]。「秋月」は駆逐艦夕立、春雨、朝雲、夏雲と共に「日進」を護衛し、アメリカ軍機から同艦を守った[45][40]。
10月11日朝に水上機母艦日進、千歳と駆逐艦秋月、綾波、白雪[46][47]、叢雲、朝雲、夏雲はショートランド泊地を出撃し、ガダルカナル島への輸送・揚陸作戦に従事する[48][49]。輸送隊は零戦隊の掩護を受けつつ、順調に進撃[50]。夜になってガダルカナル島へ到着、物資揚陸に成功する[51][50]。
その頃、ガダルカナル島沖では日本の第六戦隊などがアメリカ艦隊と交戦して敗退(サボ島沖海戦)。 日進輸送隊はラッセル諸島西側を通過して戦闘海域を離脱[52]。この時、第六戦隊救援と掩護のため朝雲、夏雲、白雪、叢雲が分派されたが、空襲により夏雲と叢雲が沈没した[53]。 10月12日午前7時、輸送隊は増援部隊指揮官橋本少将がひきいる軽巡洋艦川内、由良、駆逐艦時雨、白露、浦波、磯波、天霧等と合流[54][55]。日進隊は由良、天霧、白露、時雨の護衛を受けてショートランドへ到着した[56][47][53]。
10月12日夕刻、第四水雷戦隊司令官高間完少将は「秋月」に移乗し、本艦を第四水雷戦隊旗艦とした[57]。秋月型の対空能力を期待して、旗艦を軽巡洋艦「由良」から「秋月」へ変更したのである[58]。秋月型の旗艦能力も、短時間の任務ならば『概ね支障ない』との評価を得ていた[59]。 10月14日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官指揮下のもと、軽巡3隻(川内、由良、龍田)と駆逐艦4隻(朝雲、白雪、暁、雷)は、それぞれガダルカナル島への揚陸に成功[60][61]。翌日、四水戦(秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明)等の護衛による輸送船団6隻は、アメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)が座礁するもかろうじて輸送任務に成功した[62][63]。だが日中の米軍艦砲射撃や空襲により、揚陸地点に集積されていた物資は大部分を焼き払われてしまった[63]。
10月16日、連合艦隊は水上機母艦(日進、千歳、千代田)による輸送をやめ、軽巡洋艦及び駆逐艦での輸送を下令する[64]。「秋月」は水雷戦隊旗艦として第1小隊:第9駆逐隊(朝雲)・第6駆逐隊(暁、雷)、第2小隊:第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第3小隊:第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第4小隊:第27駆逐隊(時雨、白露、有明)を指揮する事になった[65][66]。 10月17日午前2時以降ショートランド泊地を出撃した輸送隊は、同日午後10時にガダルカナル島へ到着[67]。白露型2隻(時雨、村雨)が警戒及び陸上砲撃を行う中[68]、各艦・各部隊は陸軍兵2159名、大砲18門、軍需物資の揚陸に成功した[69]。「由良」に米潜水艦グランパスから発射された魚雷1本が命中したが、不発のため損害は軽微だった[67]。
10月24-25日、南太平洋海戦および陸軍のガダルカナル第二次総攻撃の際、第四水雷戦隊旗艦「秋月」は、軽巡洋艦「由良」および第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨、夕立)と共にガダルカナル島ルンガ泊地へ突入すべく行動を開始した[70]。先行して泊地に突入した突撃隊(指揮官山田勇助大佐/兼第6駆逐隊司令 第6駆逐隊《暁、雷》、第27駆逐隊《白露》)に続行してツラギ北方(インディスパンサブル海峡)を通過中、米軍機による攻撃を受ける[71][70]。 10月25日午前10時55分、SBDドーントレスの急降下爆撃により「由良」が命中弾を受け速力低下、「秋月」も至近弾を受けた[72]。「秋月」は最大発揮速力23ノットに低下、第二攻撃隊は北方への退避を開始する[73][72]。続く艦爆の攻撃は撃退したが、午後3時10分、B-17爆撃機の攻撃により「秋月」に爆弾1発が命中する[72]。戦死11名、戦傷22名を出した[74]。 一連の空襲をうけて「由良」は復旧の見込みがなくなり[75]、春雨・夕立により処分されて午後7時に沈没した[72]。「秋月」は各艦が救助した由良乗組員を収容すると、四水戦旗艦を「村雨」(のちに朝雲)に移譲して撤退を開始した[76][72]。その後、第四水雷戦隊旗艦は「村雨」から「朝雲」に移った[77]。
損傷した「秋月」は27日にラバウルに到着した[78]。10月31日、ラバウルを出港してトラック泊地へ移動[78][23]。ここで本艦は第4駆逐隊(嵐、舞風、野分)、第17駆逐隊(浦風、谷風、浜風、磯風)、第10駆逐隊(秋雲)と共に、南太平洋海戦の損傷艦(翔鶴、瑞鳳、熊野、筑摩)の内地回航を護衛した[79][80]。また回航に際し、「秋月」は外南洋部隊(第八艦隊)より除かれ機動部隊に復帰した[80]。11月6日、横須賀着[78][18]。 同地にて修理を行い、12月18日付の訓令により機銃増備工事が追加されたため、当初予定より工事期間を延長し12月28日まで行った。このとき煙突左右に機銃台を新設して25mm機銃3連装を1基ずつ搭載した。竣工時の25mm機銃連装2基と合わせ全体で25mm機銃10門となった[81]。この間の12月12日、姉妹艦「照月」は増援部隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官)の旗艦としてガダルカナル島へのドラム缶輸送作戦従事中、アメリカ軍魚雷艇の襲撃を受けて撃沈された[82]。
昭和十八年以降の戦い
編集1943年(昭和18年)1月4日、駆逐艦3隻(秋月、第16駆逐隊《初風、時津風》)は空母瑞鶴(陸軍九九式双軽爆撃機輸送任務)を護衛してトラックに進出する[83][84]。「瑞鶴」は戦艦陸奥等と共に内地へ帰投、3隻(秋月、初風、時津風)は前進部隊に編入された[84]。ガ島増援任務に投入されていた第二水雷戦隊(長波、陽炎、親潮、涼風)等の疲労と消耗がはなはだしく、健在艦と交代させる必要があったからである[85]。「秋月」には第十戦隊司令官木村進少将が座乗、十戦隊旗艦となる[86][18]。1月10日、「秋月」に先行してガ島輸送作戦に参加した「初風」はアメリカ軍魚雷艇の襲撃により大破、嵐・江風・時津風に護衛されてショートランドへ帰投することができた[85]。
1月15日、「秋月」(第十戦隊旗艦)は陽炎型駆逐艦8隻(黒潮、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風、嵐、舞風)を指揮し、ガダルカナル島へのドラム缶輸送に従事する[87][88]。警戒隊(秋月、黒潮、時津風、嵐)、輸送隊(谷風、浦風、浜風、磯風、舞風)という区分である[88]。重巡部隊(鳥海、羽黒、熊野)水上偵察機の掩護によりアメリカ軍魚雷艇部隊は撃退されたものの[89]、B-17やSBDドーントレスの襲撃により「嵐」、「谷風」、「浦風」、「浜風」が損傷した[90][88]。
1月19日に陸軍輸送中の船団がブーゲンビル島北東でアメリカ潜水艦「ソードフィッシュ」の攻撃を受けて「妙法丸」が被雷し、のち沈没する[91]。ショートランドから「秋月」と敷設艦「初鷹」が現場へ向かったが、1月19日21時37分ごろに「秋月」はアメリカ潜水艦「ノーチラス」の雷撃を受けて魚雷1本が命中し、一罐室浸水[92]。戦死者14名、重軽傷者63名が出た[93]。また、木村少将も負傷した[93]。 雷撃に合う直前、見張り員が4000mの距離に敵潜水艦を発見しており、射撃用意が完了後艦長が「打ち方始め」の号令を出そうとしていた。しかし砲術参謀が「味方潜水艦かもしれないので照射してはどうか」と遮って具申を行った。艦長は反対したものの、木村司令官が具申を採り上げた、もしくは木村司令官が砲術参謀に任せたことにより照射が行われた[94]。しかし、探照灯管制機の不調で補足できない間に敵潜水艦が潜行、爆雷戦用意を行いながら海面に向かっていた所を被雷したという[95]。ショートランドへ向かう途中、「秋月」は再度雷撃されたが、命中しなかった[93]。
1月20日、「秋月」はショートランドに入港して応急修理を行う[93][18]。翌日、第十戦隊旗艦は駆逐艦「風雲」に変更された[96]。 将旗を徹した後の「秋月」は1月30日ショートランド泊地発[93][23]。2月2日、トラック着と同時に工作艦明石に横付けして修理を受けた[97][23]。 2月3日、第61駆逐隊司令は則満大佐から大江覧治大佐(前職第19駆逐隊司令)[98]に交代した[99]。
3月11日に「東京丸」に護衛されてトラックを離れ、サイパンを経て佐世保へ向かったが、サイパンの北西40浬で艦橋下キールが切断、「勝泳丸」に曳航されてサイパンに戻り艦橋を撤去した[100][97]。艦橋は「松安丸」に移載された[97]。さらに強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断[101]。6月24日に「神光丸」に曳航され駆逐艦「卯月」[要出典]、「漣」の護衛でサイパンを出港し、7月5日に長崎に着いた[97]。
航海中の6月30日、第61駆逐隊から除籍され[102]、第二予備艦に指定される[103]。 7月27日、古賀彌(秋月)駆逐艦長は重巡洋艦「妙高」副長へ転任[104]。本艦は駆逐艦長不在となった[105]。
中部太平洋諸島の戦い
編集1943年(昭和18年)10月31日まで、修理期間短縮のため既に出来上がっていた建造中の秋月型同型艦霜月(4月7日進水)の艦首を接合する工事を三菱長崎造船所で行う[101][106]。一部残工事を佐世保工廠に場所を変え11月6日まで行った[107]。竣工時より装備の25mm連装機銃2基を3連装2基に増強するとともに、空所であった後部高射装置予定部を機銃台に改装し25mm3連装機銃1基を装備し、25mm機銃は合計15門となった。艦橋上及び左右に13mm単装機銃4挺、九三式水中聴音機、21号電探、逆探を装備している[108]。また爆雷投下台6基は撤去され爆雷投下軌条2本が装備された。
修理完成直前の10月8日、秋月二代目駆逐艦長として軽巡洋艦木曾副長緒方友兄中佐(朝潮型10番艦「霰」沈没時艦長)が補職される[109]。「秋月」は工事完成とともに10月31日附で第三艦隊・第十戦隊・第61駆逐隊(初月、涼月、若月)に再編入された[110]。
11月26日、岩国を出港し、駆逐艦4隻(秋月、島風、谷風、玉波)で空母2隻(翔鶴、千歳)をトラックまで護衛した[111][112]。12月1日、トラック泊地に到着[113][23]。同地で本艦は第61駆逐隊僚艦と初めて対面したという[111]。だが12月7日、61駆(初月、涼月)は空母瑞鶴と利根型2番艦「筑摩」を護衛してトラックを出港し、第61駆逐隊は再び分散した[114][115]。
当時、日本海軍はマーシャル沖航空戦で「中型空母1隻撃沈、大型空母1隻撃破、巡洋艦1隻撃沈」と認識し、また七五三航空隊も空母1隻、巡洋艦3隻を撃沈と報じ、12月6日の大本営発表で華々しく発表した[116]。実際の戦果は、空母レキシントンII(CV-16)が魚雷1本命中で中破、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻損傷だった[116]。このような状況下、連合艦隊はマーシャル群島の航空隊整備を企図した[117]。12月9日、クェゼリン環礁に第一航空戦隊・第二十二航空戦隊の基地物件を輸送[118]。12月14日にトラック泊地に戻った[117][23]。 その後、「秋月」は大和型戦艦2番艦「武蔵」の標的船曳航作業を行った[119]。国見(秋月軍医長)は武蔵の主砲弾が初弾挟叉したことを記憶しているが、同時に「大和ホテル」や「武蔵御殿」と揶揄された戦艦と駆逐艦の生活環境の違いにも言及している[119]。この間の12月12日、第61駆逐隊司令は大江大佐から泊満義大佐に交代した[120](大江大佐は12月26日附で重巡洋艦摩耶艦長)[121]。
12月25日、「秋月」は戊三号輸送部隊第二部隊に編入された[122]。 戊三号輸送部隊第二部隊は阿賀野型軽巡洋艦能代(第二水雷戦隊旗艦)、大淀型軽巡大淀、駆逐艦2隻(秋月、山雲)という戦力で、12月31日にトラックを出撃し、1944年(昭和19年)1月1日カビエンで陸軍兵と物資を揚陸した[123][124]。作業終了後、アメリカ軍機の空襲を受けた[125]。対空戦闘開始時、4隻は旗艦能代を中心にして、能代の右舷4kmに秋月、左舷3kmに山雲、能代の後方8kmに大淀という陣形をとっていた[126]。カビエンからは零式艦上戦闘機約50機(第二航空戦隊《龍鳳、飛鷹》所属機30含む)が発進し、艦隊を掩護した[123]。一方「能代」は大淀直衛に「秋月」を派遣したため、戊三号輸送部隊は能代・山雲と大淀・秋月という二群に分離する[127]。零戦隊を突破した米軍機は二手にわかれると、大型の「能代、大淀」を主として狙った[128][123]。大淀・能代・山雲が至近弾、小型爆弾の直撃、不発弾、機銃掃射等の被害を受けたものの、深刻なダメージを負った艦はなかった[125]。秋月に大きな被害はなかった[123][129]。零戦隊は撃墜24(不確実14)を報じ、6機(二航戦所属4機)を喪失している[123]。1月4日、トラックに戻る[130]。1月25日、「秋月」は再びラバウルへ進出したが2月上旬にはトラック泊地へ呼び戻された[131]。
アメリカ軍機動部隊との戦闘
編集1944年(昭和19年)1月上旬、軽巡洋艦「阿賀野」(第十戦隊旗艦)の損傷に伴い同戦隊司令官木村進少将が座乗して「秋月」は再び旗艦となった[132]。1月16日、姉妹艦「涼月」は米潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187)の雷撃で大破、泊大佐(第61駆逐隊司令)は戦死した。このころ、連合艦隊司令部はトラック島が戦場になることを懸念し、在泊連合艦隊艦艇をリンガ泊地(東南アジア)に移すことを決定する。本艦は敷島部隊(戦艦《長門、扶桑》、重巡《熊野、鈴谷、利根》、第17駆逐隊《浦風、磯風、浜風》)に加わり2月1日(1月30日とも)、トラック泊地を出港した[133][134]。2月4日、パラオのコロール港に到着する[134]。 2月16日、パラオを出港し2月21日にスマトラ島とシンガポールに挟まれたリンガ泊地に到着した[135]。リンガ泊地には既に空母「瑞鶴」、第十戦隊各艦(風雲、初月、若月)が到着しており、第61駆逐隊が再び合同すると同時に第十戦隊旗艦は軽巡洋艦「矢矧」に変更となった[136]。
3月1日、第一機動部隊が新編成される。3月4日には中部太平洋方面艦隊(司令部サイパン島)の編成にともなって前第一艦隊長官南雲忠一中将が親補、「秋月」は戦艦「長門」を退艦してシンガポール飛行場におもむく南雲を送迎した[137]。 3月20日、涼月被雷時に戦死した泊大佐の後任として、天野重隆大佐(前職第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》司令)が第61駆逐隊司令に任命される[138]。 4月5日、新鋭空母「大鳳」が到着。5月1日には戦艦「大和」、重巡洋艦「摩耶」、駆逐艦「島風」が合流[139]。「秋月」は主に訓練に従事した[140]。5月15日、タウイタウイ泊地に進出する[141]。5月16日、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)・第三航空戦隊(千歳、千代田、瑞鳳)が合流[142]。5月20日、豊田副武連合艦隊長官は連合艦隊旗艦大淀より『あ号作戦用意』を発令し、一〇三四発電で『今次作戦は実に皇国興廃の繁る所にして決戦部隊、就中航空部隊、潜水部隊は身を挺し必勝邁進し、各方面部隊は要地を固めて之が支援鉄壁を形成し、各員其の任務に応じ誓って本作戦の必成に向ひ善戦敢闘を望む』と伝えた[143]。6月2日、護衛任務を中断してタウイタウイ泊地に帰投[144]。
6月15日、「秋月」は機動部隊の一艦としてギマラスを出撃、サンベルナルジノ海峡を通過して太平洋に進出した[145][146]。16日、渾作戦のためハルマヘラ島に派遣されていた第一戦隊司令官宇垣纏中将指揮下の別働隊(大和、武蔵、妙高、羽黒、能代、島風、沖波)が合流する[145]。この頃、アメリカ軍機動部隊の攻撃により太平洋の島々に配備された日本軍基地航空隊が壊滅している。 6月19日、マリアナ沖海戦において第61駆逐隊は小沢機動部隊(第三艦隊)の直衛護衛艦として参加する[146]。午前8時、「秋月」の艦橋から左舷前方1500mの位置にいた空母大鳳に米潜水艦アルバコアから発射された魚雷1本が命中するのが目撃された[147]。この時点で「大鳳」は『本艦被雷するも被害軽微、戦闘航海に支障なし、安心せよ』と信号し、外観に異常は見られなかったという[147]。午前11時20分、空母翔鶴に米潜水艦カヴァラから発射された魚雷4本が命中、同艦は午後2時頃に沈没した[148]。秋月・矢矧・浦風は協力して脱出者の救助をおこない[149]、本艦は「翔鶴」乗組員約100名を救助した[150]。午後2時32分、「大鳳」は漏洩したガソリンに引火して大爆発を起こし、午後4時28分に沈没した[148]。乗組員は磯風・初月等に救助された(緒方艦長は本艦も大鳳生存者救助に従事と回想)[146]。小沢司令部は炎上する「大鳳」から駆逐艦「若月」へ脱出、さらに重巡「羽黒」へ移乗したのち、最終的に「瑞鶴」へ移動した[151]。
6月20日、215機のアメリカ軍艦載機が小沢機動部隊を襲撃し、まず補給部隊のタンカー2隻(玄洋丸、清洋丸)が被弾炎上(駆逐艦卯月、雪風により、それぞれ処分)[151]。続いて旗艦「瑞鶴」も襲撃を受けた。「瑞鶴」を中心に、第五戦隊(妙高、羽黒)、第十戦隊(軽巡《矢矧》、第17駆逐隊《浦風、磯風》、第61駆逐隊《初月、若月、秋月》、秋月型《霜月》、第10駆逐隊《朝雲》)という輪形陣を組んで米軍機を迎撃した[152]。「瑞鶴」には爆弾1発が艦橋後方に命中、至近弾6発という被害を受けたが、沈没することはなかった[153]。最後に空母「飛鷹」が撃沈されたが[151]、秋月が掩護するには距離が遠すぎた[154]。こうしてマリアナ沖海戦は空母3隻、タンカー2隻が沈没、残る空母も損傷し、飛行機350以上を失って完敗した。6月22日、本艦は瑞鶴等を護衛して中城湾に入港、23日出港し、翌日に柱島に帰投した。
6月29日に呉に入港し、7月20日まで整備・補給と武装追加工事が行われた。25mm単装機銃7基と単装機銃取付座7基、13号電探が装備され、25mm機銃は戦闘時には29門(推定)となった[155]。7月30日、空母瑞鳳、第61駆逐隊(初月、秋月)、第4駆逐隊(野分、山雲)は小笠原諸島・硫黄島方面への輸送作戦護衛任務に従事した(スカベンジャー作戦)[156][157]。8月3日に内地へ戻ると、「秋月」は長崎に移動して入渠整備を行う[158]。この間、8月6日に雲龍型1番艦「雲龍」、8月10日に雲龍型2番艦「天城」が竣工して第一航空戦隊を再編成するが[159]、秋月以下第十戦隊が雲龍型航空母艦を戦場で護衛する機会はなかった。出渠後、一旦佐世保へ回航したのち内海西部に移動して待機した[160]。
9月30日から10月4日の間に呉に入港して修理・整備を実施[23]。水中聴音機の水漏れが発見され10月6日から10月11日まで日立因島造船所に入渠して修理を行った[161]。
レイテ沖海戦
編集捷一号作戦の発令を前にした10月12日、「秋月」は呉に入港し10月14日まで出撃前の臨戦準備を行った。艦内の可燃物は徹底した陸揚げが行われたほか、カッター2隻と内火艇1隻(左舷)を陸揚げして跡に25mm単装機銃6挺を増備した[155]。
10月17日、捷一号作戦警戒が発令された。呉を出発し徳山で燃料補給の後、八島沖に回航して小沢機動部隊と合流した[162]。10月20日、小沢機動部隊の護衛艦として日本を出発し、23日にはエンガノ岬沖に進出した[163]。10月24日午前11時45分、小沢機動部隊から攻撃隊58機(零戦30、爆弾装備零戦20、天山艦攻6、彗星2)が発進してアメリカ軍機動部隊の攻撃に向かい[164]、正規空母1隻撃沈、1隻撃破を報告した[164]。実際の損害はほとんどない。また松型駆逐艦2隻(桐、杉)が燃料不足のため艦隊から離脱した[165]。 小沢中将は航空戦艦2隻(伊勢、日向)、第61駆逐隊(初月、秋月、若月)、第41駆逐隊(霜月)に対し『南方に進出、好機に応じ残敵を攻撃すべし』と命じた[166][167]。秋月艦内では総員戦死の可能性が高まったとして酒保が解放され、当直を残して下士官兵を中心に宴会となった[168]。前衛はアメリカ艦隊を求めて南下したが、小沢中将が午後10時30分に北方退避を命じたため、「秋月」も四航戦(伊勢、日向)に従って反転した[169]。国見(秋月軍医長)は北方反転を聞いて心底安堵したという[170]。
10月25日午前7時、秋月以下前衛艦隊は小沢治三郎中将が指揮する機動部隊本隊と合流した[171]。各艦は空母を中心とした輪形陣を組んだ[167]。対空戦闘時の小沢機動部隊は第三航空戦隊の空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)、第四航空戦隊の航空戦艦2隻(伊勢、日向)、軽巡洋艦3隻(多摩、五十鈴、大淀)、駆逐艦6隻(初月、秋月、若月、霜月、槇、桑)で編制され[172]、さらに第一群(瑞鶴、瑞鳳、伊勢、大淀、多摩、初月、秋月、若月、桑)と、第二群(千歳、千代田、日向、五十鈴、霜月、槇)に分離していた[173][174][167]。
その1時間後、エンガノ岬沖海戦がはじまった。午前8時15分、直衛の零式艦上戦闘機18機がアメリカ軍約130機と交戦を開始[171]、秋月は午前8時25分から対空射撃を開始した[175]。なお「五十鈴」は8時35分に秋月被弾と記録している[176][177]。「瑞鶴」を護衛中、午前8時50分に斜め後方からSB2Cヘルダイバーによる急降下爆撃[178]により艦中央部に被弾する[179]。缶室では高圧蒸気が噴出し、機関科70名(砲術科に応援を出したため規定82名以下)は第一缶室の3名を除き全滅した[180]。「大淀」は、蒸気の噴出による白煙を記録している[179]。午前8時56分、艦中央より黒煙と火災が発生[179]。次の瞬間、酸素魚雷の誘爆による大爆発が起きた[181]。艦中央部に大孔が開き、周辺の艦構造物は軒並み消失して「秋月」は完全に停止、今にも折れそうに軋んでいたという[182]。すると右舷後方から魚雷1本が接近したが、この魚雷は艦尾をかすめた[183]。乗組員が安堵したのも束の間、総員退避命令が出される[184]。まもなく二つに分断されて沈没した[185][186]。五十鈴戦時日誌では、0857「秋月眞中ヨリ折レル」 0859「秋月沈没」と記録した[176]。沈没地点北緯18度15分 東経126度35分 / 北緯18.250度 東経126.583度[18]。
一方、緒方(当時秋月艦長)は、戦史(大淀戦闘詳報)の記述とは異なり「爆発から総員退避命令を出すまで艦は停止していたが対空戦闘を継続し、いよいよ左舷側への傾斜が激しくなったので総員退避を命じた。その後も沈没まで15分から20分ほどはあった」と証言している[187][188]。一方で緒方は、総員退去発令後に急激に左舷傾斜したため短艇を降ろす時間がなく、乗員はすべて海中に投げ出されたとも回想している[163]。岡田一呂(少佐・砲術長)は、アメリカ軍機13機撃墜と主張している[189][190]。秋月乗組員のうち183名が戦死し、生存者は「槇」に収容された[191][192]。救助中に空襲があったため、全員を救助できなかったという[193]。また「槇」は被弾により戦死者31名・負傷者38名(負傷36名とも)を出し、秋月乗組員4名も戦死した[191]。
海戦の結果、空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)、軽巡1隻(多摩)、駆逐艦2隻(秋月、初月)が沈没している[171]。秋月生存者は戦艦伊勢に便乗し、本土へ帰投した[194]。11月15日、秋月と初月の喪失と駆逐隊司令の戦死により第61駆逐隊は解隊[195]。
12月10日、「秋月」と「初月」は秋月型駆逐艦[196]、 帝国駆逐艦籍[197]より除籍された。
秋月沈没の謎
編集アメリカ軍は潜水艦ハリバットが秋月を撃沈したと主張している[198][199]。このため、一部文献では「秋月」沈没をハリバットの雷撃とする[200][23]。空母瑞鳳に命中するはずだった魚雷の盾になって秋月は爆沈したという美談もある[201][202]。瑞鳳掩護説は吉田俊雄(作家、海軍少佐)が瑞鳳乗組員の目撃談として紹介している[203][204]。
秋月の緒方艦長は「敵機を見ていない。後ろから2機が来ていたというが、機銃掃射だけで爆弾は落としていない」と証言した[201][205]。一方で、秋月の艦尾をかすめた魚雷も複数生存者に目撃されており、河原崎(水雷長)は「潜水艦からの発射」と推定している[206]。神前(砲術科)は、雷撃機が魚雷を投下した直後、この機は撃墜され、魚雷も外れたと証言している[207]。またハリバットの記録によると、秋月沈没時刻には魚雷を発射していない。河原崎は他生存者の目撃談を集める必要があると述べているが、おおむね秋月がアメリカ軍機から投下された爆弾命中と自艦魚雷誘爆により沈没したことに差異はなく[208]、秋月生存者や遺族会「秋月会」では沈没要因を「爆弾命中」と決定している[209]。これに対し緒方は酸素魚雷の誘爆を沈没要因としつつも、「敵機の爆弾・敵潜水艦の魚雷のいずれも命中はしておらず、輪形陣の反対側で対空射撃をしていた味方艦の砲弾弾片が、多数艦(秋月)に降り注いでいた」と証言[188]。その中に防御の薄い次発装填装置内の予備魚雷に命中したものがあって酸素魚雷が爆発したのではないかと推測している[187][188]。
秋月に関する通説
編集これは古賀彌(秋月初代駆逐艦長)が戦後記述した文章が基となっている。しかし艦艇研究家の田村俊雄は調査の中で、
- 公式記録(「駆逐艦行動調書」)では、B-17撃墜は1機となっている[211]。
- 乗組員への聞き取り調査によると後部の高射装置は竣工時から未装備であった。また、初戦に限らずいかなる実戦でも分火を行った記憶が無い[211]。
- 秋月を建造した舞鶴工廠に勤務していた方々への聞き取り調査でも一部で未装備だったという証言があり、秋月公式図の写図には前部高射装置が実線、後部高射装置は一点鎖線で書かれている[211]。
- 秋月竣工直後に赴任した元技術大尉は「写図に実線で描かれていないのなら完成時に装備されていなかったことを示すもので、写図に誤りがあるとは考えられない」と語っている[211]。
以上により、艦橋上の1基しかなく同時に2機の目標に照準を合わせることは不可能だったとしている[211]。 また別の記録として宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」では、9月29日に秋月がブカ島でB-17爆撃機2機と交戦、1機を撃墜し「防空駆逐艦の価値を始めて発揮せり」と記述している[212]。
- そのためアメリカ軍は秋月型には不用意に近づかないよう警告を発した。
このことについて田村は同じく調査の中で、
- 基となるアメリカ側資料が自力調査しても全く見当たらず、海外の友人に協力してもらっているがそれでも見つからないこと。
- 同じように警告に関する通説も海外の文献に登場しないこと。
以上から、通説が日本のみで言われていることではないか、と推測している[213]。
- 「警報を発した」説は、福井静夫が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している[214]。
この項の参考文献
編集- 田村俊夫、「駆逐艦『秋月』の実像」歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23『秋月型駆逐艦』、学習研究社、1999年、p79-110。
歴代艦長
編集- 艤装員長
- 駆逐艦長
参考文献
編集- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。
- 小淵守男『少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦「大淀」16歳の海戦』光人社NF文庫、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9。 小渕は大淀主砲発令所勤務。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
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- 桂理平『空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり』霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5。 著者は海兵72期。昭和18年12月〜沈没まで瑞鳳勤務。
- 国見寿彦、河原崎勇監修『海軍軍医の太平洋戦争 防空駆逐艦秋月』近代文藝社、1992年。ISBN 4-7733-1675-6。
国見は秋月軍医長。秋月乗組員の証言も収録。河原崎勇(秋月水雷長)、海上自衛隊一等海佐、防衛庁戦史編纂官監修。 - 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社、1982年。ISBN 4-7698-0207-2。
1980年8月25日に行われた秋月艦長緒方友兄へのインタビューを掲載。 - 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7。
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- 当時「秋月」二代目艦長・海軍中佐緒方友兄『二代目艦長が綴る駆逐艦「秋月」の奮戦 被雷損傷修理をおえ新艦長を迎えて前線復帰した後の精鋭艦の航跡』
- 当時「秋月」罐部四分隊士・海軍中尉山本平弥『防空駆「秋月」の死命を制した最後の一弾 秋月の沈没原因は敵潜の魚雷か直撃弾か。それとも発射管の誘爆か』
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- 戦史研究家落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
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- Ref.C08030113200『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030113300『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030113400『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)』。
- Ref.C08030113800『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030113900『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030114000『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030114100『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。
- Ref.C08030768400『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030048900『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(8)』。
- Ref.C08030101500『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
- Ref.C08030101900『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030145400『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030050000『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030050100『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030050200『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030050300『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(4)』。
- Ref.C08030050400『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(5)』。
- Ref.C08030050500『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(6)』。
- Ref.C08030724100『昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌』。
- Ref.C08030150500『昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030150600『昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030150700『昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030145900『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。
- Ref.C08030050800『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030050800『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030050800『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030036200『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。
- Ref.C08030582100『昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鶴捷1号作戦戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030582200『昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鶴捷1号作戦戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030582300『昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鳳捷1号作戦戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030582400『昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鳳捷1号作戦戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030582500『昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦千歳捷1号作戦戦闘詳報』。
- Ref.C08030576900『昭和19年10月25日 軍艦伊勢捷1号作戦戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030577000『昭和19年10月25日 軍艦伊勢捷1号作戦戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030577100『昭和19年10月20日~昭和19年10月29日 軍艦日向捷号作戦戦闘詳報』。
- Ref.C08030577500『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 軍艦大淀捷1号作戦戦闘詳報』。
- Ref.C08030579200『昭和19年10月20日~昭和19年10月29日 軍艦五十鈴フィリピン沖海戦戦闘詳報』。
- Ref.C08030590100『昭和19年10月25日 駆逐艦霜月戦闘詳報』。
- Ref.C08030590300『昭和19年11月 駆逐艦桑菲島沖海戦戦闘詳報』。
- Ref.C08030038500『昭和19年10月1日~昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(6)軍艦瑞鶴・軍艦日向』。(軍艦五十鈴戦時日誌)
脚注
編集- ^ 昭和16年7月2日付 内令第764号別表。士官8、特務士官2、准士官3、下士官75、兵185、計273。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070151900 で閲覧可能。
- ^ a b
機銃、電探数は『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』p.103による。1944年10月25日の最終時の兵装。25mm単装機銃は推定。 - ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされた。秋月の場合は1943年7月から10月の損傷復旧時に装備。『歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦』p.102による。
- ^ a b #達昭和16年5月(1)pp.48-49『達第一五六號 昭和十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、一等驅逐艦一隻、一等潜水艦一隻及驅潜艇二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十六年五月十五日 海軍大臣 及川古志郎|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 敷設艦 若鷹(ワカタカ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 一等驅逐艦 秋月(アキヅキ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第七十六潜水艦(以下略)』
- ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p341。
- ^ #国見 軍医19頁
- ^ a b #ハンディ判艦艇写真集18p.16『秋月型建造工程一覧表』
- ^ #内令昭和16年5月(2)p.9『内令第五百三十五號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十六年五月十五日 海軍大臣 及川古志郎|軍艦、敷設艦ノ項中「蒼鷹」ノ下ニ「、若鷹」ヲ加フ|驅逐艦、一等夕雲型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |秋月型|秋月|(以下略)』
- ^ #内令昭和16年7月(1)p.16『内令第七百六十三號 驅逐艦 秋月 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|昭和十六年七月二日 海軍大臣 及川古志郎』
- ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他p.1『佐世保|第二十五驅逐隊|《秋月》《照月》《初月》|(戦時編制ニ依ル所属)第七航空戦隊』
- ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制p.5『第七航空戦隊|鳳翔、《第二十五驅逐隊》|特設航空母艦二|横須賀佐世保(特設艦船部隊ノ所管鎮守府)|呉(集合地)』
- ^ a b 「昭和17年3月20日付 海軍辞令公報(部内限)第832号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084700
- ^ a b 「昭和17年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第863号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085500
- ^ a b 「昭和17年(発令5月20日付)5月20日付 海軍辞令公報(部内限)第863号 p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085500
- ^ a b #秋月型(潮2015)11頁
- ^ #S1705舞鎮日誌p.10『(1)新造艦船工事 秋月巻波及初月ノ艤装工事竝ニ第百二十五號艦、第三百四十號艦及第三百四十一號艦ノ建造工事ハ概ネ順當ニ進捗シツツアリシモ秋月ハ公試ノ結果砲塔ニ不具合ノ點アリ又俯角制限装置機構ニ手直シヲ要スル所アリシ爲五月二十五日完成豫定ヲ變更ノ已ムナキニ至リ完成期日ヲ六月十九日ニ延期セラレタリ』
- ^ #S1706舞鎮日誌pp.8-9『(1)新造艦船工事 前月ニ引續キ秋月、巻波及初月ノ艤装工事竝ニ島風、第三四〇號艦及第三百四十一號艦ノ建造工事ハ概ネ順當ニ進捗シツツアリシモ秋月砲熕公試ノ結果不具合ノ點アリ完成期ヲ六月十日ニ變更セル處尚俯角制限装置機構手直ヲ要スル爲更ニ六月十九日迄完成期ヲ延期セラレタル處作戰ノ関係上砲熕機能試験ヲ省略シ六月十一日引渡ノコトニ大臣ヨリ指令アリタルニ付任務ニ差支ナキ程度ニ整備ノ上十一日竣工引渡ヲ了ス』
- ^ a b c d e #秋月型(潮2015)73-75頁『秋月』
- ^ #内令昭和17年6月(1)p.36『内令第千四十四號 佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋月 右警備駆逐艦ト定メラル|昭和十七年六月十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ #S1706横鎮日誌(2)p.12『11日1350横鎮長官→朧、秋月駆逐艦長/横鎮機密第八七五番電 朧及秋月ハ連合艦隊司令長官ノ作戦指揮ヲ受クベシ 両船ハ五航戦機密第四九六番電ノ如ク行動スベシ』
- ^ #叢書29北東方面258頁『敵艦隊邀撃作戦』
- ^ a b c #叢書29北東方面260頁『聯合艦隊司令長官発十三日1500 (イ)五航戦(翔鶴欠)及警戒駆逐艦(第一航空艦隊司令長官所定)(以上第二機動部隊ニ編入) 朧、秋月ハ瑞鶴北方部隊ニ合同迄四航戦司令官ノ作戦指揮下ニ入リ任務終了後本籍軍港ニ帰投(以下略)』
- ^ a b c d e f g h i j k l m #ハンディ判艦艇写真集18p.32(駆逐艦『秋月型』行動年表)◇秋月◇
- ^ #第5艦隊日誌AL作戦(2)p.7『麾下(指揮下)艦船部隊ノ行動 五航戦 瑞鶴・浦風』
- ^ #S1706横鎮日誌(5)p.2『一.駆逐艦朧、秋月ヲ東京湾方面部隊ニ編入ス|二.朧、秋月ニ対シ五航戦入泊セバ成ルベク速ニ横須賀ニ回航原隊復帰ヲ発令ス(以下略)』
- ^ a b c d e #国見 軍医21頁、河原崎勇(秋月水雷長)談。
- ^ #S1706横鎮日誌(5)p.3『七.秋月1730朧1800横須賀帰着』
- ^ #秋月型(潮2015)16-17頁
- ^ #秋月型(潮2015)19頁
- ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、102-103ページ
- ^ #戦隊行動調書p.10『隊名:10S|9.8 秋月、編入』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.10『第九駆、秋月|9-26|外南洋部隊ニ編入』
- ^ #内令昭和17年10月(1)p.33『内令第千八百六十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月七日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十四驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第六十一驅逐隊|秋月、照月|』
- ^ 「昭和17年10月7日(発令10月7日付)海軍辞令公報(部内限)第959号 pp.45-46」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200
- ^ #戦隊行動調書p.10『隊名:10S|10.7 編制 旗艦長良 4dg 10dg 16dg 17dg 61dg(照月、秋月)ヲ加フ』
- ^ a b c #叢書83ガ島戦178-180頁『三日の「日進」輸送』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.39『10月3日1805 8F参謀長/本日ノ日進ニ対スル敵機来襲ニ鑑ミ明朝ノ同船引揚ヲ掩護スル為黎明時迄ニ合同スル如ク秋月ヲ派遣サレ度内意ナリ』
- ^ #日進戦闘詳報(1)pp.7,41-44『秋月ハ4日黎明救援ニ来ル』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.19『10月6日1540川内/(略)秋月ハ日進艦長ノ指揮ヲ受ケ同艦ノ援護ニ任ズ、時雨11dg(初雪欠)綾波(指揮官27dg司令)ハ往返ノ途次日進艦長ノ指揮ヲ承ケ同艦ノ掩護ニ任ズ』
- ^ a b c d #叢書83ガ島戦182-183頁『八日の「日進」輸送』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.19『10月7日0901 11AF参謀長/天候不良ノ為日進上空警戒機ノ発進不能』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.40『日進、秋月|10-7|RXNニ向ケ発進セルモ上空直衛ナキ為引返ス』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.40『10月7日/時雨、第11駆逐隊(初雪欠)、綾波/陸兵473、大隊砲4、曲射砲2、弾薬ヲ「タサファロング」ニ揚陸ス』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.9『(ハ)第二回「ガ」島輸送』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.8『秋月ハ専ラ本艦ノ護衛ニ當ル外9駆(峯雲欠)2駆(村雨五月雨欠)ハ往復ノ途次日進艦長ノ命ヲ受ケ護衛ニ當リ概ネ上図ノ隊形ニテ航行セリ』
- ^ 戦史叢書では白雲と表記するが、同艦は8月下旬の輸送作戦中に空襲を受け大破、警備駆逐艦に指定されて内地へ帰投、サボ島沖海戦時は呉で修理中。
- ^ a b #内令昭和17年10月(1)pp.2-3『内令第千八百二十五號 横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 山雲|呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 夕霧 驅逐艦 白雲|右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.9『日進千歳9駆(峯雲欠)11駆1小隊綾波秋月 10月11日0600「ショウトランド」発中央航路ヲ取リ2020「タサファロング」着揚陸開始…』、p.10『(三)護衛ノ状況 秋月、夏雲ハ専ラ日進、千歳ノ護衛ニ任ズルノ外同行駆逐艦ハ往復ノ途次護衛ニ當リ概ネ左ノ隊形ニテ航行セリ』
- ^ #叢書83ガ島戦188頁『サボ島沖海戦』
- ^ a b #叢書83ガ島戦190-191頁『「日進、千歳」の輸送』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.43『10月11日/日進千歳秋月夏雲/15榴4、牽引車4、野砲2、弾薬車4、高射砲1、固定無線1、陸兵675、弾薬、糧食』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.9『揚陸部隊ハ揚陸続行2250作業終了「ラッセル」諸島西側ヲ通過帰途ニ就ク』
- ^ a b #叢書83ガ島戦200-201頁『「叢雲、夏雲」の喪失』
- ^ #日進戦闘詳報(1)p.10『12日0715収容ノ為南下セル川内、由良、駆逐艦5ト合同、1400「ショウトランド」着』
- ^ #日進戦闘詳報(2)p.15『1145由良→天霧27駆/1200発動日進ニ対シ直衛配備ニ就ケ 由良0度 天霧右45度 白露右90度 時雨左45度距離各三粁』
- ^ #叢書83ガ島戦200頁(夕霧が加わっているが、夕霧は白雲と共に損傷。白雲と夕霧は警備駆逐艦に指定され、サボ島沖海戦時、共に呉で修理中。天霧の誤記)
- ^ #S1709四水戦詳報(3)pp.8-9『翌10月11日(略)同夕刻有明ニ将旗ヲ移揚シテ「ラバウル」発12日1300「ショートランド」泊地着、同日夕刻秋月ニ将旗ヲ移揚、同夜27駆(夕暮欠)及秋月駆逐艦長以上船長(第一分隊)打合ヲ行ヒ作戦準備ヲ完了セリ』
- ^ #S1709四水戦詳報(3)p.7『輸送船航行中及泊地ニ於ケル揚搭作業中ハ護衛隊ノ全力ヲ以テ対潜対空威力ノ最大発揮ニ努ム。特ニ秋月ノ対空威力ノ最大発揮ニ努ム』
- ^ #S1709四水戦詳報(4)pp.12-13『十.護衛隊旗艦トシテノ秋月能力 今次作戦ノ如ク極メテ短期間護衛駆逐艦七隻輸送船六隻ヲ指揮セル情況ニ於テハ左ノ人員兵器ヲ増加セルノミニテ概ネ支障ナク護衛任務ヲ遂行シ得タリ|(イ)人員(司令部)幕僚全部、信号員3、電信員8、暗号員特務士官2下士官兵2|(ロ)兵器(由良)方向信号灯2』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.42『川内由良龍田朝雲白雲暁雷(増本隊)|10-14|陸兵1129、野砲4、速射砲4、弾薬ヲ「エスペランス」ニ揚陸ス 友軍5S(羽黒欠)摩耶ハRXIノ艦砲射撃ヲ實施ス』
- ^ #叢書83ガ島戦217-218頁
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.43『輸送船(崎戸九州笹子佐渡南海及吾妻山丸)|10-15|14日「タサファロング」ニ入泊セル船団ハ15日0335以後ヨリ連続的敵機ノ爆撃ヲ受ケ0945吾妻山丸火災續イテ笹子山丸1120九州丸火災擱坐、1530残存船団帰途ニ就ク』
- ^ a b #叢書83ガ島戦219-220頁『外南洋部隊のガ島飛行場射撃』
- ^ #叢書83ガ島戦222-224頁『輸送計画の変更』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)p.4『10月16日連合艦隊ヨリノ指令ニ依リ日進、千歳ノ輸送ハ取止メラレ千代田ノ進出モ亦延期トナレルヲ以テ増援部隊ヲ軽巡戦隊(川内由良龍田)水雷戦隊(秋月9dg、11dg、6dg、2dg、19dg、27dg)ニ分ケ第四水雷戦隊司令官ハ水雷戦隊ヲ指揮スルコトトナレリ』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)pp.14-15『16日2335 3sd司令官→4sd司令官8F長官/翌17日出撃要領左ノ通改ム|一.出撃時刻0430|二.出撃部隊軍隊区分 軽巡戦隊 一番艦川内、二番艦由良、三番艦龍田・水雷戦隊旗艦秋月、一番隊9駆11駆6駆、二番隊2駆、三番隊19駆、四番隊27駆(略)五.入泊(引揚)時刻「エスペランス」「タサハロング」共2100(2300)|六.入泊地19駆ヲ「タサハロング」ニ、龍田ヲ「エスペランス」ニ変更ス|七.日進、千歳、千代田ノ出撃ハ追テ令ス』
- ^ a b #叢書83ガ島戦224-225頁『十七日の輸送』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)p.6『『村雨、時雨ハ適時哨区ヲ撤シ2210予定ノ如ク陸上砲撃ヲ実施ス(発射弾数 村雨60発、時雨100発)』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.43『増援部隊|10-17|陸兵2159、野砲6、速射砲12、弾薬器材ヲ「エスペランス」「タサファロング」ニ揚陸ス』
- ^ a b #叢書83ガ島戦257-260頁『突撃隊(第六駆逐隊)のルンガ泊地攻撃』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2)pp.43-44『外南洋部隊|10-24 10-25|RXN陸軍総攻撃ハ22日ト決定サレタルモ陸軍進出ノ関係上順次繰下ゲラレ24日ト決定セリ、海軍ハ右作戦ニ策応スル為出撃セリ。飛行場占領ノ報ニ接シ各隊予定ノ如ク進撃中右ハ誤報ナル事判明進出ヲ中止ス。但シ突撃隊(6dg駆2欠、白露)ハ予定ノ通「ルンガ」ニ突入ニ決ス、敵巡「ルンガ」ニ在ルノ報ニ接シ第2攻撃隊4Sd(9dg、27dg欠)ヲ増派ス。突撃隊ハ特巡1、小型輸送船2撃沈、駆逐艦ハ遁走ス。第2攻撃隊ハ連続敵機ノ爆撃ノ為由良ヲ失ヒ秋月亦被害アリ、依ッテ損傷艦ハRXEニ帰投スベキ命ジ其ノ他ハ作戦ヲ続行ス。陸軍部隊ハ飛行場奪取ニ成功セズ』
- ^ a b c d e #叢書83ガ島戦260-262頁『「由良」の沈没』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.8『又秋月ハ至近弾ニ依リ右軸室満水後部機械室隔壁膨出シ最大使用速力23節前記ノ如ク連続敵機ノ来襲アルヲ以テ第二攻撃隊ハ由良ヲ護衛シツツ一時北方ニ避退スルニ決ス』
- ^ #国見 軍医22頁
- ^ #S1709四水戦詳報(6)pp.8-9『1453更ニ為シ得ル限リ「ファラ」島ニ向フベキヲ命ジ「ラモス」島南方ヲ低速力ニテ西進中1500乃至1510敵艦爆六機及B-17型六機ノ爆撃ヲ受クルニ及ビ命中弾由良ニ対シ秋月ニ対シ1、五月雨ニ至近弾1アリ、由良ハ全ク航行不能ニ陥リ艦橋下及中部ヨリ起リタル火災ハ漸次蔓延シテ全艦火ニ蔽ハルルニ至リ之ガ復援ノ策全ク絶ヘタルヲ以テ1520第二駆逐隊各艦ニ対シ由良乗員ノ救助ヲ命ズ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.26-27『25日1920将旗4sd/秋月ハ敵機ノ爆撃ニ依リ左ノ被害アリ作戦行動ニ支障アルニ付由良ノ乗員ヲ収容ノ上「ラボール」ニ帰投セシム|(一)1号缶使用不能|(二)右舷軸使用不能|(三)後部機械室後部隔壁膨出高速時保安上不安アリ|(四)発揮シ得ル最大速力22節』-『25日2115将旗4sd→第二攻撃隊/2300漂泊ス、秋月ハ由良乗員ヲ収容ノ上「ラボール」若ハ「ショートランド」ニ回航セヨ|2330将旗ヲ村雨ニ移揚ス』
- ^ #戦隊行動調書p.42『隊名:4Sd|所在艦/10.12-26秋月、10.26-31村雨、31〜朝雲』
- ^ a b c #国見 軍医23頁
- ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.22『11月1日1717第三艦隊司令長官/一. 左ノ各艦(隊)ハ左記ニ依リ内地ニ帰投修理整備作業ニ任ズベシ (1)回航地 艦名:横須賀 翔鶴第四駆逐隊(萩風欠)秋月 呉:熊野筑摩第十七駆逐隊第1小隊秋雲 佐世保:瑞鳳第十七駆逐隊第2小隊 (2)行動(イ)11月2日1400以後「トラック」発各回航地毎ニ先任艦長指揮シ回航スルモノトス。』
- ^ a b #叢書83ガ島戦325-327頁『兵力の再編制』
- ^ #歴史群像p.94、p.102
- ^ #秋月型(潮2015)76頁
- ^ #叢書83ガ島戦409-410頁『陸軍兵力の南東方面集中輸送』
- ^ a b #叢書83ガ島戦506-507頁『聯合艦隊撤収作戦要領』
- ^ a b #叢書83ガ島戦512-513頁『一月十日』
- ^ #戦隊行動調書p.10『隊名:10S|所在艦/18年1.6 阿賀野→秋月』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(4)p.26『「エスペランス」ニ揚陸ヲ実施ス|輸送物件:各艦 陸兵163 「ドラム」缶30 ゴム嚢40 小 発2 折畳式浮舟10』
- ^ a b c #叢書83ガ島戦513-514頁『一月十四日』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(4)p.26『鳥海羽黒熊野機ハ「サボ」島ノ南西五浬ニ於テ魚雷艇6隻ト交戦1隻撃沈2隻炎上セシム…』
- ^ #S1709第八艦隊日誌(4)pp.26-27『15日敵機延B-17一〇 fc一五 小型十数機来襲 嵐至近弾ニ依リ航行不能、谷風浦風浜風至近弾ニ依リ若干ノ被害アリ、谷風艦長以下数名ノ戦死二十数名ノ傷者ヲ出セリ|嵐上空警戒ノR方面航空部隊観測機20ハB-17一〇 P-39一二ト交戦P-39一機撃墜被害自爆6』
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- ^ #S1812第4駆逐隊日誌(7)p.8『30日/0900出港瑞鳳護衛』、p.13『29日1353瑞鳳/瑞鳳、61dg(涼月、若月欠)、4dg(山雲、野分)ハ30日0900横須賀発概ネ船団ノ50浬圏内ヲ機宜行動船団行動変化ナケレバ左ノ如ク行動ス(略)』
- ^ #S1907第十戦隊日誌(1)p.5『(2)野分、山雲 山雲入渠セザリシ外両艦共27日迄ノ経過概ネ満潮ト同断28日横鎮乙直接護衛部隊ニ編入30日初月秋月ト共ニ瑞鳳警戒艦トシテ父島方面ニ向ケ横須賀発輸送ノ護衛ニ任ズ』
- ^ #S1907第十戦隊日誌(2)p.3『(1)初月、秋月|2日附乙直接護衛部隊ヨリ除カレ第二遊撃部隊ニ編入瑞鳳ヲ警戒3日内海西部着6日内海西部発初月ハ佐世保ニ、秋月ハ長崎ニ夫々回航入渠整備ニ従事…』
- ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.7『二.八月十日第三艦隊軍隊区分ヲ左ノ通改ム』
- ^ #S1907第十戦隊日誌(2)pp.3-4『…19日出渠20日秋月ハ佐世保ニ回航24日初月秋月佐世保発(略)秋月ハ25日内海西部ニ回航同方面ニアリテ今月末迄諸訓練ニ従事ス』
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- ^ #国見 軍医362頁、山元民法(主計兵曹)談。
- ^ a b c #大淀捷1号pp.15『〇八五〇頃秋月中部ニ爆弾命中初メハ白煙ヲ出シ居タルガ〇八五六魚雷誘爆シタルモノヽ如ク濛々タル黒煙並ビニ火焔ヲ認メタル瞬間眞二ツニ折レテ沈没セリ』
- ^ #海軍予備士官159、207頁
- ^ #国見 軍医365-366頁、神前静(発令所員)・目戸守衛(兵曹、指揮所見張員)談。
- ^ #国見 軍医360頁、#海軍予備士官175頁
- ^ #国見 軍医360、365、366頁
- ^ #国見 軍医363頁、高木義男(砲員長)談。
- ^ #国見 軍医360頁、#海軍予備士官182頁
- ^ #最後の海空戦(文庫)30-32頁『「秋月」轟沈』
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- ^ #佐藤艦長続編(文庫)469-470頁
- ^ #秋月型(潮2015)48頁
- ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
- ^ #秘海軍公報昭和19年12月(2)p.12『内令第一三三三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年十二月十日 海軍大臣 驅逐艦、一等初雪形ノ項中「浦波、」ヲ、同初春型ノ項中「、若葉」ヲ、同不知火型ノ項中「不知火、」ヲ、同夕雲型ノ項中「、藤波」ヲ、同秋月型ノ項中「秋月、」「、初月」ヲ削ル』
- ^ #秘海軍公報昭和19年12月(2)p.18『内令第一三四〇號|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦波、驅逐艦 不知火|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 若葉、驅逐艦 秋月、驅逐艦 初月|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 藤波|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(中略) 昭和十九年十二月十日 海軍大臣』
- ^ #国見 軍医378頁
- ^ #秋月型(潮2015)33頁
- ^ #ハンディ判艦艇写真集18p.6(秋月爆発時写真)
- ^ a b #佐藤 艦長(文庫)202-204頁『魚雷命中説のウソ』
- ^ #秋月型(潮2015)51、106頁
- ^ #悲劇の軍艦96頁
- ^ #波濤を超えて336-337頁(当事の吉田は緒方艦長の生存を知らず、また証言の正確性はあえて検証していない)
- ^ #海軍予備士官120頁
- ^ #国見 軍医382-383頁
- ^ #国見 軍医382頁、#海軍予備士官205頁
- ^ #国見 軍医384頁、#海軍予備士官203頁
- ^ #秋月型(潮2015)107頁
- ^ #秋月型(潮2015)10-11頁
- ^ a b c d e #歴史群像p.83-91
- ^ #戦藻録(九版)196頁
- ^ #歴史群像p.110
- ^ 日本駆逐艦物語p.211に同記事を再録
- ^ 「昭和19年11月2日付 海軍辞令公報(甲)第1637号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800