福田 篤泰(ふくだ とくやす、1906年10月13日 - 1993年8月7日)は、日本の政治家。

福田篤泰
ふくだ とくやす
航空自衛隊浜松基地を視察する福田(1963年7月31日)
生年月日 1906年10月13日
出生地 東京府
没年月日 (1993-08-07) 1993年8月7日(86歳没)
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
前職 外務省官僚
所属政党民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
衆議院永年在職議員
経済学士

日本の旗 第36代 郵政大臣
内閣 三木改造内閣
在任期間 1976年9月15日 - 1976年12月14日

内閣 第1次佐藤第1次改造内閣
在任期間 1965年6月3日 - 1966年8月1日

日本の旗 第16-17代 防衛庁長官
内閣 第2次池田第3次改造内閣
在任期間 1963年7月18日 - 1964年7月18日

内閣 第2次岸改造内閣
在任期間 1959年6月18日 - 1960年7月19日

選挙区 東京都第7区
当選回数 10回
在任期間 1949年1月24日 - 1979年9月7日
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衆議院議員(10期)、総理府総務長官行政管理庁長官郵政大臣などを歴任した。

経歴

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東京府出身。府立第三中学校旧制浦和高等学校を経て、1930年東京帝国大学経済学部を卒業後、外務省に入省。情報局秘書課長などを経て吉田茂首相秘書官となる。吉田の名代として林譲治益谷秀次との折衝を任されるなど信頼を得ていた。

1949年第24回衆議院議員総選挙に旧東京7区から民主自由党公認で立候補し当選[1]、以後当選10回で、吉田政権時代の中央官僚出身政治家にしては珍しく、保守合同後は大野伴睦派-村上勇派-三木武夫派と、党人派系の派閥を遍歴している。

多数入閣し、1959年第2次岸内閣総理府総務長官1963年第2次池田内閣防衛庁長官1964年に訪米した際には「憲法の許す範囲でベトナム戦争に協力する」と発言した[2]。その後、1965年第1次佐藤内閣行政管理庁長官北海道開発庁長官1976年三木内閣郵政大臣を務めた。また、戦争で離島を余儀なくされた小笠原島民の要望に応え、1960年小笠原協会会長に就任、日米両国政府にロビイングを行い1968年の日本復帰に道を開いた。

1979年第35回衆議院議員総選挙落選により政界引退。1977年春に勲一等旭日大綬章受章。1993年8月7日死去。86歳没。

世界連邦運動の推進団体・世界連邦日本国会委員会第8代会長である。

著書

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  • 回想記『至誠天に通ず 政界二十五年の歩み』(外政研究会、1974年)

脚注

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  1. ^ この選挙で当選した同期に、池田勇人佐藤栄作岡崎勝男前尾繁三郎麻生太賀吉橋本龍伍小渕光平西村英一橋本登美三郎福永健司塚原俊郎藤枝泉介木村俊夫稲葉修河本敏夫森山欽司床次徳二有田喜一など
  2. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、124頁。ISBN 9784309225043 
公職
先代
村上勇
  郵政大臣
第36代:1976年
次代
小宮山重四郎
先代
増原恵吉
  行政管理庁長官
第27代:1965年 - 1966年
次代
田中茂穂
先代
増原惠吉
  北海道開発庁長官
第25代:1965年 - 1966年
次代
前尾繁三郎
先代
志賀健次郎
  防衛庁長官
第16・17代:1963年 - 1964年
次代
小泉純也
先代
松野頼三
  総理府総務長官
第3代:1959年 - 1960年
次代
藤枝泉介
議会
先代
高瀬伝
櫻内義雄
  衆議院外務委員長
1967年 - 1968年
1972年
次代
秋田大助
藤井勝志
先代
神田博
  衆議院商工委員長
1957年
次代
小平久雄