石黒涵一郎
石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日[1](1854年1月31日) - 大正6年(1917年)10月2日)は、日本の衆議院議員(憲政党→立憲政友会)、弁護士、教育者。
経歴
編集丹後国加佐郡舞鶴出身。丹後田辺藩士の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、大阪兵学寮に入った。その後、法律を学び、1876年(明治9年)に代言規則が発布されると、免許を得て代言人となった。豊岡、大阪で開業した後、1879年(明治12年)に岡山に移住した。
1882年(明治15年)に山陽自由党を結成して自由民権を唱え、1885年(明治18年)には大阪事件の被告の弁護にあたった。その後、大同団結運動がおきると積極的に参加して、岡山に大同倶楽部を組織した。1888年(明治21年)、井上馨の条約改正交渉に反対するボアソナードの意見書を秘密出版した容疑で、星亨とともに禁固1年の判決を受けたが、翌年の大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放された。
岡山市会議員を経て[2]、1898年の第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。
他に岡山商業会議所特別会員を務め[2]、1886年(明治19年)には山陽英和女学校(現在の山陽学園中学校・高等学校)を創設した[3]。
脚注
編集- ^ 漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年、p.22。
- ^ a b 『新選代議士列伝』金港堂、1902年
- ^ 学校法人山陽学園 沿革
関連項目
編集- 山本唯三郎 - 実業家。娘婿。
参考文献
編集- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。