石川 宗敬(いしかわ むねたか)は、江戸時代前期の伊達氏一門・角田石川家第3代当主。

 
石川宗敬
時代 江戸時代
生誕 慶長12年5月3日1607年6月26日
死没 寛文8年10月16日1668年11月20日
改名 熊増丸(幼名)→宗昭→宗綱→宗敬
別名 駿河(通称)
幕府 江戸幕府
主君 伊達政宗忠宗
氏族 角田石川家
父母 父:石川義宗、母:静子(赤坂光顕娘)
牟宇姫伊達政宗娘)
宗弘白石宗信白石宗貞の婿養子)、
白石宗定(貞弘。白石宗貞の婿養子。兄の宗信の後継。)、千代鶴姫(伊達宗敏室)、正菊姫(大町永頼室)
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生涯

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慶長12年(1607年5月3日陸奥国伊具郡角田要害にて石川義宗の子として誕生した。幼名は熊増丸。同15年(1610年)、父の義宗が病により死去したが、熊増丸はまだ幼少であったため、祖父の昭光が後見人として政務を執った。元和2年(1616年)に元服し、主君の伊達政宗より宗の一字を賜り、宗昭と改称した[1]。同5年(1619年)2月、伊達政宗の娘の牟宇姫を妻に迎えた。同7年(1621年)正式に家督を継ぎ、角田石川氏第3代当主となった。このとき2千石を加増され、合高1万2千石となった。

寛永元年(1624年5月6日伊達成実伊達宗利と共に伊達政宗の朝茶会に出席した記録が残る。同5年(1628年)、祖父の昭光の法要に際して金鶏山昭光寺を建立した。同6年(1629年)5月6日、伊達成実と共に、政宗の屋敷の新築を祝うための茶会に出席した。同7年(1630年)12月、嫡子の宗弘が産まれた。寛永13年(1636年)4月、義父でもあった政宗が危篤となり、急ぎ江戸に赴いたが、途中で政宗逝去の知らせを受け角田に戻った。同14年(1637年)6月、大雨により阿武隈川が氾濫し土手が決壊し、大洪水が発生したため、石川氏の領内でも多数の死亡者が出た。同16年~18年(1638年1641年)、阿武隈川の治水工事を行った。この堤防工事は総延長2千792間に及び、その後の領地内の野谷地(湿地帯)開発の元となった。

正保元年(1644年刈田郡湯原邑を賜り、藩境湯原館勤番を命ぜられたため、石川家は在番を置いて大境警護にあたった。同3年(1646年)嫡子の宗弘に家督を譲り、宗敬は隠居となった。領内の稲置邑館林に住した。

寛文8年(1668年)10月16日、病により没した。享年62。


参考文献

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  • 角田市史

脚注

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  1. ^ 正保元年(1644年)には宗綱と改め、明暦2年(1656年)には宗敬と称した。
先代
石川義宗
角田石川家
第3代
次代
石川宗弘