王 玄載(おう げんさい、413年 - 488年)は、南朝宋からにかけての軍人は彦休。本貫太原郡祁県

経歴

編集

東莞郡太守の王蕤(上谷郡太守の王宰の子)の子として生まれた。南朝宋の江夏国侍郎・太宰行参軍を初任とした。泰始元年(465年)、長水校尉となった。泰始2年(466年)、張永の下で彭城の薛安都を攻撃した。宋軍が敗れると、玄載は軍を率いて下邳城に拠り、北魏の攻勢をはばんだ。仮の冠軍将軍の号を受けた。泰始3年(467年)、持節・監徐州豫州梁郡諸軍事・寧朔将軍・平胡中郎将・徐州刺史に任じられた。北魏の孔伯恭が宋の沈攸之の軍を破ると、玄載は北魏の尉元の勧告を容れて、下邳を放棄して撤退した。まもなく山陽東海二郡太守を兼ねた。

泰始5年(469年)、青兗二州刺史に転じた。泰始7年(471年)、再び徐州刺史となり、都督徐兗二州諸軍事・鍾離郡太守を兼ねた。左軍将軍の号を受けた。寧朔将軍・歴陽郡太守に任じられ、持節・都督南豫州諸軍事・冠軍将軍・南豫州刺史に転じた。撫軍司馬となった。元徽元年(473年)10月、持節・都督梁南北秦三州諸軍事・冠軍将軍・西戎校尉・梁秦二州刺史として出向した。征虜将軍に進んだ。元徽4年(476年)1月、都督益寧二州諸軍事・益州刺史・建寧郡太守に転じた。昇明元年(477年)、沈攸之の乱が起こると、玄載は蕭道成に味方して、後軍将軍の号を受け、鄂県子に封じられた。

建元元年(479年)、斉が建国されると、玄載は左民尚書となった。建元2年(480年)、北魏の侵攻を受けて、南兗州刺史の王敬則建康に逃走してくると、玄載は広陵に派遣されて、仮節・平北将軍・行南兗州事の位を加えられた。垣崇祖らが魏軍を撃退すると、玄載は光禄大夫・員外散騎常侍の位を受けた。永明4年(486年)、持節・監兗州縁淮諸軍事・平北将軍・兗州刺史となった。

永明6年(488年)、死去した。享年は76。は烈子といった。

伝記資料

編集