王式通
王 式通(おう しきつう)は、清末民初の政治家・学者。北京政府に属し、司法行政・学芸行政の分野で主に活動した。字は書衡、号は志盦。本貫は浙江省紹興府山陰県。子は北京政府・中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)の政治家である王蔭泰。
王式通 | |
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プロフィール | |
出生: | 1864年(清同治3年) |
死去: |
1930年(民国19年)10月30日 中華民国北平特別市 |
出身地: | 清山西省汾州府汾陽県 |
職業: | 政治家・学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 王式通 |
簡体字: | 王式通 |
拼音: | Wáng Shìtōng |
ラテン字: | Wang Shih-t'ung |
和名表記: | おう しきつう |
発音転記: | ワン・シートン |
王式通 王式通 王式通 Wáng Shìtōng | |
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生年月日 | 1864年 |
出生地 | 清 山西省汾州府汾陽県 |
没年月日 | 1930年10月30日 |
死没地 | 中華民国 北平特別市 |
出身校 | 京師通芸学堂卒業 |
子女 | 子・王蔭泰 |
在任期間 | 1912年7月 - 1912年7月 |
事績
編集1898年(光緒24年)、戊戌科進士となる。京師通芸学堂を卒業し、北洋編書局、大学堂、学務処、法律学堂で各職を歴任した。1906年(光緒32年)、日本に教育の視察に赴く。帰国後は内閣中書、刑部山東主事、安徽司員外郎、大理院推事・御史、大理院少卿などを歴任した[1]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)7月、王式通は、北京政府の司法部次長代理となる。さらに陸徴祥内閣で司法総長王寵恵が中途で辞任したため、王式通が総長を暫時代理した。まもなく王式通は総統府法制秘書に転じた。さらに、約法会議秘書長、政治会議秘書長、総統府内史、政事堂機要局長など、事務方の要職を歴任している[1]。
1916年(民国5年)5月、王式通は段祺瑞内閣で国務院秘書長となる。6月、国務院参議に異動した。1917年(民国6年)9月から1920年(民国9年)9月まで、全国水利局副総裁をつとめている。その後は、清史館纂修、故宮博物院管理委員会副委員長、東方文化事業総委員会委員などになる[1]。王式通は、当時における史学・地誌の第一人者としても知られた[2]。1930年(民国19年)10月3日、北平で病没。享年67[1]。
著作
編集- 『弭兵古義』
- 『志盦遺稿』1938年
脚注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
中華民国(北京政府)
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