獨協中学校・高等学校

東京都文京区にある私立中高一貫校
獨協高校から転送)

獨協中学校・高等学校(どっきょうちゅうがっこう・こうとうがっこう、: Dokkyo Junior & Senior High School)は、東京都文京区関口三丁目に所在する私立男子中学校高等学校学校法人獨協学園が運営する完全中高一貫校である[1]。最寄り駅は、東京メトロ有楽町線護国寺駅江戸川橋駅である。

獨協中学校・高等学校
獨協中学校・高等学校
地図北緯35度42分49.2秒 東経139度43分38.3秒 / 北緯35.713667度 東経139.727306度 / 35.713667; 139.727306
過去の名称 獨逸学協会学校普通科
獨逸学協会中学校(旧制)
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人獨協学園
設立年月日 1883年
共学・別学 男子校
中高一貫教育 完全一貫制
課程 全日制課程
設置学科 普通科
学期 3学期制
学校コード C113310500113 ウィキデータを編集(中学校)
D113310500175 ウィキデータを編集(高等学校)
高校コード 13579J
所在地 112-0014
東京都文京区関口三丁目8番1号
外部リンク 獨協中学・高等学校
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

概要

編集
 
西周と天野貞祐の胸像

明治時代に先覚者達によって設立されていた独逸学協会を母体に1883年(明治16年)獨逸学協会学校が設立される(初代校長西周)。明治以来の有数の歴史と伝統を誇る私立学校である。近代日本の医学ドイツを手本としており、また系列校に獨協医科大学を持つことから、設立時から現在に至るまで医学部系の進学率が比較的高く、今日まで数多くの優秀な医学の徒を輩出している。一時は落ち込んでいた医学部への進学者も近年は右肩上がりで増えている。その影響か、近年では合格実績の伸びと共に獨協中学校の偏差値も伸びており、2021年度には灘中学校やラ・サール中学校等を抑えて過去問出庫率一位に輝くなど、怒涛の人気を見せている。

開校当時からドイツ語を中心に教育を進めてきたため、明治から大正にかけて、獨逸学協会学校→一高(三部、医科)→東京帝国大学(医科)の順に進学するのはエリートコースの一つであった。しかし、第一次世界大戦でドイツが敗れると、ドイツ語を学ぶ生徒が激減し、昭和初期には経営環境が非常に厳しくなった。日独伊三国同盟成立の影響で、若干の人気回復を果たすが、第二次世界大戦後は廃校の危機に直面。戦後、日本体系や教育制度がそれまでのドイツ式からアメリカ式に移行するとともに、獨協中学校も存続の危機を迎えた。GHQに対しては、獨協とは「獨逸学協会」の略ではなく「独立協和」の略であると、苦しい弁明をしたほどであった。そんな1952年(昭和27年)、日本で最初の本格的なカント哲学研究者であり、第3次吉田内閣文部大臣も務めた天野貞祐が、母校再建のために第13代校長に就任。「人間教育」を教育理念の原点とする高い指導力によって、中学・高等学校の復興を果たした。

医学会・法曹界・教育界へ優れた人材を数多く輩出した獨協学園の存在は、日本が近代化し発展を遂げる過程に大きな足跡を遺している。その当時の高き理想と理念に基づく教育の資質は現在でも受け継がれている。

中高一貫制の教育区分は、中学校の第1学年および第2学年の前期2年間を「第1ブロック(基礎学力養成期)」、中学校第3学年および高等学校第1学年の中期2年間を「第2ブロック(学力伸張期)」、高等学校の第2学年および第3学年の後期2年間を「第3ブロック(学力完成期)」に区分する「2-2-2制」を採用している[2]

獨協学園同窓会ドクターズクラブ (DDC)

編集

獨協高校は140年以上の歴史の中多くの医家を輩出し、彼らは各地で医療保健福祉の分野に務めている。それら医師となった卒業生は近年の名簿を紐解くだけでも実に1200名以上に上り、出身大学は54校に及ぶ。そして、これらのスケールメリットを生かすべく、獨協同窓会ドクターズクラブ(DDC)が2000年(平成12年)に発足。

また、発足時から毎年2月にはそれぞれの当番大学同窓会が責任を持って学術会議を開催しており、毎回の幹事、座長、演者は無論、全員が獨協高校出身者であり、世代や出身大学、診療科目を超越したユニークな研究会として、その存在が医学界で注目されている。

教育目標および教育方針

編集

「心構えは正しく、身体は健康、知性に照らされた善意志と豊かな情操とを持つ、気品のある人間の育成を目指す。」これが為には、すべての生徒に、それぞれ人間としての自信と矜持(誇り)とを抱かしめ、各自の天分を開発し、その長所を培養する。他日社会に出ては、日日の生活に感謝と喜びとを見出し、勤勉努力して社会に奉仕し、広く文化の創造に寄与する人間となることを期待するわけである。教育愛こそ本学園の情熱であり、人間教育こそ本学園の精神である。

これは、第13代校長である天野貞祐が述べた言葉である。現在ではこの言葉が学園の中で広く浸透し、事実上の教育目標および教育方針となっている。

年表

編集
  • 1876年 - 北白川宮能久親王を念頭に、ドイツ長期留学者の品川彌二郎青木周蔵桂太郎等の人物により独逸同学会発足。
  • 1881年 - ドイツ文化を摂取し、我が国文教の興隆を図る目的の下、西周桂太郎加藤弘之等の人物により独逸学協会設立。
  • 1883年 - 獨逸学協会学校創立。初代校長西周就任。
  • 1884年 - 専修科(法律・政治専攻)および普通科を併設。
  • 1893年 - 普通科を獨逸学協会学校中等部に改称。
  • 1894年 - 『独逸文法教科書』初版発行。
  • 1895年 - 専修科が東京帝国大学法科へ移管され廃止となる。
  • 1901年 - 夜間の出火が原因で校舎および書庫を消失。
  • 1902年 - 小石川関口台に新校舎竣工。
  • 1905年 - シラー没後百年祭
  • 1914年 - 第一次世界大戦ドイツが「敵国」となった影響で生徒数が減少。
  • 1926年 - ドイツ政府よりドイツ人教師費用として、毎年一万マルク寄贈の旨が伝達される。
  • 1937年 - 獨逸学協会中学校へ改称。
  • 1938年 - 来日中のヒトラーユーゲント代表が来校。
  • 1940年 - 欧州におけるナチス・ドイツの「興隆」や、マスコミにおけるアングロ・サクソン文明への批判の高揚、日中戦争の拡大などの「時局」柄か、ドイツ語を志望する者が極めて多くなった。200名の定員に対し、入学志願者1,360名に達した。(昭和9年度の入学者148、11年158、12年256名)。
  • 1943年 - 学制「大改革」が公布され、中学校の修業年限が4年に短縮、上級生徒はいずれも軍事目的に学徒動員される。
  • 1944年 - 中学4,5年生徒に長期勤労動員令が下り、以後全学年の学業停止。都内北部の陸軍兵器補給厰や民間軍需工場に動員され、銃後の勤労に全力を投入した。個人で少年航空兵などに応募し、帰らぬ獨協生が幾人も出た。
  • 1945年5月25日 - 翌26日未明にかけて山手一帯が米空軍の大空襲を蒙る。交代夜勤中の教職員と当直の生徒一隊は迫りくる猛火の消化に努め、ついに校舎および附属図書館等を灰滅から守る。この頃目白台は要塞化、獨協には海軍部隊が駐屯。
  • 1945年8月15日 -「終戦」の詔勅。下級生は炎暑の校庭で、上級生は動員先で聴く。家を焼かれ、父や母を失い、就学継続が不可能になった獨協生も多かった。
  • 1947年 - ドイツ第三帝国大日本帝国の敗北によって廃校の危機を迎えた獨逸学協会学校は「独立協和」の意味として「独協」表記とし、校名を独協学園とする。
  • 1948年 - 新制独協中学校・高等学校が発足。
  • 1952年 - 天野貞祐、独協中学校・高等学校第13代校長に就任。
  • 1953年 - OB等の要望で、学園名及び校名を獨逸学協会の獨協学園及び独協中学校・高等学校に復する。
  • 1997年 - 中高一貫制を開始。
  • 1998年 - 新校舎が完成。
  • 2000年 - 1997年入学生が高校1年に進級と同時に、高校からの募集を停止し完全中高一貫校化。獨協同窓会ドクターズクラブ(DDC)発足。
  • 2002年 - 高校からの入学生が卒業し、完全中高一貫校となる。
  • 2008年 - 入試回数を2回から3回へ変更。
  • 2014年 - 入試募集人員を210名から200名へ変更。
  • 2016年 - 第三回入試の日程を2月5日から2月4日へ変更。
  • 2019年 - 新中1を5クラスから6クラス編成へ変更。
  • 2020年2月26日 - 翌年より国数2教科による2月1日の午後入試を新設することを発表。
  • 2023年 - 学園創立140周年、獨協医科大学との高大連携プロジェクトによる新推薦枠(10名以下)が新設。

校風

編集

生徒の自主性を重んじる校風であり、学内には一人一人の考え方を重んじる自由な空気がある。生徒と担任の教師やそれぞれの科目を担当する教師との距離が近く、様々な事柄について相談し易い環境が整っている。試験期間を除けば、教員室への出入りも自由である。また、伝統的に本校の生徒は高校1年の時からドイツ語を外国語として選択することが可能である。以前は大学入試の際にドイツ語を選択する生徒もいたものの、ドイツ語コースが無い上、英語が全員必修科目のために現在ではほとんどいない。また、本校はドイツ連邦共和国政府が定めるドイツ語教育枠組みPASCHドイツ語版に加盟をしており、ドイツ政府の定めているプログラム参加生もいるが、後者も毎年いるわけではない[要出典]

施設

編集

校舎は教室が設置されている本校舎と、小道を挟んだ向かい側にあるスポーツ設備を備えた100周年記念体育館の2つに分かれている。

現在の本校舎は地上5階、地下1階建、モダンな構造で1998年(平成10年)に落成した。設計コンセプトは「『光と、風と、緑の創造空間」で、オーディオテクニカ本社などのデザインを手がけた赤坂喜顕が設計。日本建築学会作品選奨に選定された[3]

校舎は部室棟とともに中庭グラウンドを囲む形で建てられており、台地という地形から新宿副都心や東京スカイツリーなどが臨める[要出典]

ガラスを多く取り入れた設計で、間口を設けられるフリースペースや、階段、上層階の廊下などを可能な限りガラス張りとしたほか、その他窓が設けられない部分にも吹き抜けを設置、教室にも桟が少ない大型ガラスが使用されているほか、細長い窓を設置して間接照明風にするなどの工夫を凝らすなど、光を利用した採光性の高い校舎である。全ての教室に、全自動空調、全熱交換換気システムを採用し、フロア内で天井裏の配管などを数箇所にまとめることにより天井を高くすることで、高い居住性を確保している。生物室、化学室、物理室、地下理科室の4つの理科室が設置され、大学で使用される器具を多く取り扱うなど、高いレベルの学習環境を実現した[要出典]

100周年記念体育館は1983年(昭和58年)に落成。敷地が急坂に面しているという独特の地形を活かし、土地の有効活用という面から[要出典]体育館は地下に設置されており、体育館屋上部分が運動場となっている。体育館内には、アーチェリー場、トレーニングルーム、柔道場、シャワールームなどが設置されている。(シャワールームは現在閉鎖中)また周囲にドライエリア・天窓を設置し、室内には空調設備、大型換気扇を導入することで、地下体育館での採光・通風のデメリットを解消している[要出典]

一部の学年の教室には備え付けのプロジェクターがある[要出典]

進路

編集

医療関係者の子息の割合が高いため医歯薬系の学部への進学率が高い。また、近年の医学部の人気上昇や難易度が上がり競争が激化した影響もあり浪人をしてでも医学部への進学を希望する生徒が多い。そのため、獨協大学獨協医科大学への推薦枠があるが、獨協医科大学への進学を希望する生徒が多く年々増加している。2023年度時点で、11人が獨協医科大学医学部医学科に推薦入試を利用して進学した。また、他難関大学進学希望者が内部進学希望者より多く、進学校の要素が強い。ただし、近年は現役志向も相まって獨協大学への進学を希望する生徒も増加している。

しかしながら、#概要で記した通り、近年の獨協中学校の人気上昇や難化の影響で学校全体の空気がここ数年で急激に変化を遂げており、今後の伸びが期待されている。

獨協医科大学への推薦入試合格者数一覧

本学1学年(約190名)中獨協医科大学への合格者数一覧※()内は受験者数
推薦進学者数
【2014】4(4) →【2015】3(3) →【2016】5(5) →【2017】0 → 【2018】2(5) → 【2019】0 → 【2020】3(4) → 【2021】4(5) → 【2022】6(6) → 【2023】11(12)

2021年度の一般入試の合格先として、獨協大学は日本大学明治大学東京農業大学東京理科大学中央大学法政大学に次いで7番目に多い[4]

本学1学年(約190名中)獨協大学への合格者数
一般入試合格者数 8(2017)→5(2018)→16(2019)→13(2020)→20(2021)
併設校推薦進学者数 1(2017)→4(2018)→6(2019)→6(2020)→14(2021)。

獨協医科大学への一般入試合格者数も、21年度の医学部医学科合格先としては最も多く、推薦枠の利用も増加傾向である。他に医療系大学への推薦枠としては21年現在、東京理科大学薬学部東京薬科大学北里大学医学部、聖マリアンナ医科大学などがある。

部活動

編集

2023年の時点で29の部活、5個の同好会がある。同好会は同学年有志が創ることが多く、数年で廃部や自然消滅となることが多い(数学同好会や英語同好会など)。また、部活に入らない生徒の増加・低学年化が進み、廃部になったり(PC部)、廃部の危機に瀕している部活(天文部など)も少なくない。学校の管理上、部活動を中学と高校で分けているのはサッカー部と野球部のみだが、部活動によっては中学と高校で異なる活動をしていることもある。

交通アクセス

編集
 
 

学校関係者および関連団体

編集

総裁

編集

北白川宮能久親王

 
獨逸学協会会長・総裁の北白川宮能久親王

歴代校長

編集
  • 初代 - 西周(1883年10月 - 1887年4月)
  • 2代 - 桂太郎(1887年4月 - 1890年7月)
  • 3代 - 加藤弘之(1890年7月 - 1903年9月)
  • 4代 - 大村仁太郎(1903年9月 - 1907年6月)
  • 5代 - 石川千代松(1907年6月 - 1907年7月)
  • 6代 - 長井長義(1907年7月 - 1920年7月)
  • 7代 - 金杉英五郎(1920年7月 - 1927年10月)
  • 8代 - 司馬亨太郎(1929年5月 - 1936年2月)
  • 9代 - 小山松吉(1936年3月 - 1946年1月)
  • 10代 - 吉岡正明(1946年1月 - 1951年12月)
  • 11代 - 額田豊(1951年12月 - 1952年5月)
  • 12代 - 市川秀雄(1952年5月 - 1952年12月)
  • 13代 - 天野貞祐(1952年12月 - 1970年3月)
  • 14代 - 小池辰雄(1970年4月 - 1979年3月)
  • 15代 - 篠原寛(1979年4月 - 1982年3月)
  • 16代 - 蝦名賢造(1982年4月 - 1987年3月)
  • 17代 - 山鹿誠次(1987年4月 - 1989年3月)
  • 18代 - 朝倉保平(1989年4月 - 1993年7月)
  • 19代 - 戸張敦雄(1993年8月 - 1995年8月)
  • 20代 - 奥田千秋(1995年9月 - 2000年3月)
  • 21代 - 永井伸一(2000年4月 - 2011年3月)
  • 22代 - 渡邊和雄(2011年4月 - 2021年3月)
  • 23代 - 上田善彦(2021年4月 - )

教職員経験者

編集

著名な出身者

編集

政治・行政・経済

編集

学者

編集

文化

編集

関連団体

編集
  • 獨協同窓会ドクターズクラブ (DDC)

関連学校・関連施設

編集

脚注

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集