牧野数江
牧野 数江(まきの かずえ、天保2年(1831年)2月 - 1883年(明治16年)7月9日)は幕末の軍人、明治時代の画家。江戸幕府旗本として戊辰戦争を戦い、降伏後開拓使画工を務めた。
時代 | 幕末、明治 |
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生誕 | 天保2年(1831年)2月 |
死没 | 1883年(明治16年)7月9日 |
改名 | 牧野隼之助、主計、数江 |
別名 | 成貫(諱)[1]、錦池(号)[2] |
幕府 | 江戸幕府草風隊参謀、蝦夷共和国陸軍奉行添役 |
主君 | 徳川慶喜 |
氏族 | 牧野氏 |
父母 | 牧野成之 |
兄弟 | 牧野成名 |
経歴
編集幕府時代
編集天保2年(1831年)2月[3]江戸幕府旗本牧野成名の弟として生まれた[4]。幼名は隼之助、後に主計(かずえ)[4]。石井潭香に書道を学び、高弟となった[5]。
慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発すると、洋式軍隊草風隊参謀として参戦し、4月15日下総国諸川(茨城県古河市)で旧幕府脱走隊大鳥圭介と合流し、奥州を転戦した[6]。8月23日耶麻郡桧原(福島県北塩原村)の山道で大鳥圭介に馬を貸している[6]。
明治元年(1868年)10月五稜郭を占領した際には伝習士官隊軍監を務めた[6]。12月15日入札により陸軍奉行添役となり、明治2年(1869年)2月頃大鳥・ジュール・ブリュネの松前・江差の砲台巡見に同行し、4月17日神山東照宮の祭日に丸毛利恒と参拝して書画を認め、26日八幡山で丸毛・津田主計と酒を飲みながら箱館湾海戦を観戦している[7]。5月18日降伏した後、兵部省の下で青森蓮華寺、弘前真教寺に幽閉され、10月箱館に戻った[8]。
降伏後、名前の字を数江と改めた[6]。明治初年時点の知行地は足立郡小敷谷村(埼玉県上尾市)[9]。
開拓使時代
編集1874年(明治7年)3月大鳥圭介が英米留学から帰国して開拓使に着任すると[10]、5月23日東京出張所物産課に絵図写字係として雇われ[11]、7月から11月まで大鳥に従い北海道の炭鉱等を視察し、帰京後「各所見取図」を製作した[12]。
1875年(明治8年)1月14日同僚窪田将房と共にベンジャミン・スミス・ライマンの製図補助を命じられ、2月札幌で地質調査に従事した[13]。1875年(明治8年)4月刊『日本北海道山越内石油地方略測之地質及び地理的の図』[14]に名が見える[15]。同年ヘンリー・スミス・マンローが地図作成に牧野の使用を希望するも、ライマンに断られている[13]。
1876年(明治9年)頃帰京して[13]、東京出張所内仮博物場画掛となり、6月頃から若林友恭とトーマス・ブラキストン所蔵鳥類標本の模写に従事し[16]、同時にモルレー・S・デイの測量地図にも携わった[1]。1877年(明治10年)開拓使が道産物による缶詰事業を計画し、化粧紙印刷のため開拓使勧業課と大蔵省紙幣局の間を往復した[17]。1879年(明治12年)頃にはジョサイア・コンドル設計の物産売捌所建設に際し、カーテンやテーブルクロス等の内装に関わった[18][19]。
1880年(明治13年)6月19日仮博物場専務外を命じられ、1881年(明治14年)5月21日東京出張所廃止に伴い札幌に転勤となった[20]。開拓使廃止後も残務取扱所に残留し、1882年(明治15年)3月18日解雇となった[20]。1883年(明治16年)7月9日病没した[21]。
作品
編集住所
編集牧野家
編集牧野信成九男牧野直成を祖とする[26]。石高は1500石[27]。本所相生町三丁目に拝領屋敷があり[27]、安政2年(1855年)安政江戸地震では屋敷が全半壊している[28]。
脚注
編集- ^ a b 田島 2003, p. 23.
- ^ 三浦 2007, p. 294.
- ^ 今村 2003.
- ^ a b 三浦 2007, p. 295.
- ^ a b 三浦 2007, pp. 294–295.
- ^ a b c d 三浦 2007, p. 296.
- ^ 三浦 2007, pp. 297–298.
- ^ a b 三浦 2007, p. 299.
- ^ a b “旧高旧領取調帳データベース”. 旧高旧領取調帳. 国立歴史民俗博物館. 2018年5月16日閲覧。
- ^ 三浦 2007, p. 300.
- ^ 今村 2003, p. 57.
- ^ 三浦 2007, pp. 301–302.
- ^ a b c 今村 2003, p. 58.
- ^ “日本北海道山越内石油地方略測之地質及び地理的の図”. 北方関係資料総合目録. 北海道大学. 2018年5月16日閲覧。
- ^ a b c 三浦 2007, p. 301.
- ^ 田島 2003, pp. 15–16.
- ^ 今村 2003, pp. 58–59.
- ^ 遠藤明久「開拓使物産売捌所の内部意匠 (その 1) : 開拓使物産売捌所の研究・第 13 報」『日本建築学会論文報告集』第175号、日本建築学会、1970年9月、91-97,105。
- ^ 遠藤明久「開拓使物産売捌所の内部意匠 (その 3) : 開拓使物産売捌所の研究・第15報」『日本建築学会論文報告集』第179号、日本建築学会、1971年1月、79-85,99。
- ^ a b 今村 2003, p. 59.
- ^ 三浦 2007, p. 303.
- ^ 「特別展「江戸と明治の華 ―皇室侍医ベルツ博士の眼―」」『仙台市博物館年報』第36号、仙台市博物館、2009年5月。
- ^ ポロナイ炭山報告書 / 開拓使大鳥圭介 – 早稲田大学図書館古典籍総合データベース
- ^ a b c d 三浦 2006, p. 106.
- ^ 田島 2003, p. 24.
- ^ 『寛政重修諸家譜』 巻第368。NDLJP:2577379/138。
- ^ a b c d 小川 1998, p. 2496.
- ^ 北原糸子「災害の社会像」『1855 安政江戸地震報告書』中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会、2004年3月 。
参考文献
編集- 田島達也「ブラキストン標本の鳥類図について」『北大植物園研究紀要』第3号、北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園、2003年3月、15-34頁。
- 今村信隆「開拓使の画工 牧野数江について」『北大植物園研究紀要』第3号、北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園、2003年3月、57-62頁。
- 三浦泰之「開拓使に雇われた「画工」に関する基礎的研究」『北海道開拓記念館研究紀要』第34号、北海道開拓記念館、2006年、NAID 40015249069。
- 三浦泰之「牧野数江 開拓使の画家になった大鳥圭介の参謀」『箱館戦争銘々伝』 下巻、新人物往来社、2007年8月。
- 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』 第5巻、東洋書林、1998年5月。