滋賀重列
建築家
人物
編集イリノイ大学留学後、東京高等工業学校(現東京工業大学)の建築科創設に関わり初代建築科長。1903年(明治36年)『建築雑誌』に発表した「住家(改良の方針に就いて)」は、日本における先駆的な住宅改良論として知られている。住宅産業の草分けであるあめりか屋の顧問もつとめ、明治・大正期において日本の住生活水準の向上に貢献した。
略歴
編集学位
編集- 1905年 マスターオブアーキテクチャー(イリノイ大学)
作品
編集家族
編集- 父・滋賀重身 ‐ 徳大寺実則侯爵の家扶[3]。重列はその長男[4]。滋賀家は代々徳大寺家の侍。
- 母・ため(1843-) ‐ 雅楽師・多忠愛の二女。[4]
- 前妻・はる(1877-) ‐ 建築家・木子清敬の二女。一男三女を儲ける。[5]
- 後妻・末(1878-) ‐ 徳大寺家諸大夫・堀川師克の妹。姉の夫に男爵上田宗雄、姪の夫に滋岡長彦。[4][6]。夫没後は重列設計の杉並の自邸で家政婦と二人で暮らした[7]。
- 養子・重守(1894-) ‐ 多忠龍の長男。いとこ(母ための甥)。[4]
- 弟・滋賀秀修(1869-) ‐ 予備海軍中佐[4]。娘婿に瀧本義一[8]。
- 孫・中島公子 ‐ 三女・梅子の二女[9]。仏文学舎。夫に中島昭和。[2]
- 曾孫・中島さおり、中島京子 ‐ ともに文筆家
脚注
編集- ^ 内田青蔵、昭和6年竣工の建築家滋賀重列の自邸について、日本建築学会大会学術講演梗概集、1998
- ^ a b 旧滋賀家住宅主屋すぎなみ学倶楽部、2024年03月18日
- ^ 華族名鑑 : 更新調正 増補再版 彦根正三 博公書院 1891.12
- ^ a b c d e 滋賀重列『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 滋賀重列人事興信録 3版(明44.4刊)く之部―す之部、1911
- ^ 滋岡長彦『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 証言】中島公子さんすぎなみ学倶楽部、2024年08月06日
- ^ 瀧本得之『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 布川省三人事興信録 第14版 下、1943