溝口重雄
溝口 重雄(みぞぐち しげかつ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。越後国新発田藩4代藩主。
溝口重雄像(宝光寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛永10年[1]7月10日(1633年8月14日) |
死没 | 宝永5年9月4日(1708年10月17日) |
改名 | 久三郎(幼名)→宣廣(初名)→重雄 |
官位 | 従五位下・信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 越後新発田藩主 |
氏族 | 溝口氏 |
父母 | 父:溝口宣直、母:森川重俊娘 |
兄弟 | 重雄、主殿、直倫、久、千代、六、辰 |
妻 |
正室:松平信綱養女 継室:酒井忠勝娘 側室:三木氏娘・よつ、昌蓮院[2] |
子 |
重元、市橋直方、外記、逸見元長、 女子、よめ、加井、きい、せい、峯、 女子 |
生涯
編集3代藩主・溝口宣直の長男として誕生した。幼名は久三郎。初め宣廣(のぶひろ)と称し、のち重雄と改める[3]。
寛永17年(1640年)徳川家光に初御目見する。慶安4年(1651年)に従五位下・信濃守に叙任する。寛文12年(1672年)、父の致仕により家督を継ぐ。天和元年(1681年)以後数度にわたり、松平光長改易後の高田城三の丸の守衛を務める。また元禄12年(1699年)には江戸麻布新堀の普請を務めた功によって、幕府より褒美を賜った。
宝永3年(1706年)7月19日に致仕して家督を長男の重元に譲り、悠山と号す。同5年(1708年)9月4日に76歳で死去した。法号は勝林宗慧悠山院(悠山院殿前信州大守勝林宗慧大居士とも)。墓所は江戸駒込の吉祥寺。子は4男7女。
重雄の治世は、前代に大火と震災で焼失・破損した新発田城の再建をはじめ、法制の整備や総検地の実施など積極的な政策がとられ、新発田藩政の確立期であると評される。重雄自身は文芸・芸能にも心を寄せた人物で、致仕に際しては刀剣のほかに冷泉為尹筆の『古今和歌集』や冷泉持為筆の『後撰和歌集』を将軍家に献上している。溝口悠山の名で茶人としても知られ、怡渓宗悦の教えを受けて同人の流派を藩内に伝え、越後怡渓派の基礎を築いた。また父・宣直が造営した清水谷御殿に、江戸より幕府庭方の県宗知を招いて庭園を築いた。これが現在の清水園(国指定名勝・旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園)である。