渡辺勝三郎
日本の官僚 (1872-1940)
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渡辺 勝三郎(わたなべ かつさぶろう、1872年2月12日(明治5年1月4日) - 1940年(昭和15年)9月24日)は、日本の内務省官僚。岡山県井原町(現井原市)出身。従三位勲二等。
経歴
編集岡山藩士・小姓格、渡辺徳一郎の三男として生まれる。岡山中学、早稲田専門学校、共立学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となり県治局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。奈良県参事官、広島県参事官、福島県書記官、和歌山県・香川県の各第一部長兼第三部長、香川県・京都府の各内務部長などを歴任。
1908年(明治41年)7月から1914年(大正3年)4月まで徳島県知事を務め、内務省地方局長に転じた。1917年(大正6年)12月から1919年(大正8年)4月まで新潟県知事、同年4月から1921年(大正10年)5月まで長崎県知事知事をそれぞれ務めた。
1922年(大正11年)11月より横浜市長を務め、関東大震災後の復興につとめた。市長退職後の1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)まで東洋拓殖株式会社総裁を務めた。1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[1]。その後、1936年(昭和11年)4月、高松宮家別当、1937年(昭和12年)に宮中顧問官に就任。墓所は雑司ヶ谷霊園。
栄典
編集親族
編集脚注
編集参考文献
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