池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年明治14年)1月1日[1] - 1960年昭和35年)1月11日[2])は、日本外交官内閣総理大臣秘書官等を経て、東洋拓殖総裁として大日本帝国下における植民地経営にあたった。第二次世界大戦連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により公職追放された。

池邊龍一

人物

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長崎県出身[1]。池邊政五郎の三男[1]私立商工中学校を経て、1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。

外務省入省。1907年韓国統監府属。外交官及領事官試験合格の同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに内閣総理大臣、外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、林久治郎(のちに駐ブラジル大使)、尾崎洵盛(のちに陶磁器研究家)などがいる。

内閣総理大臣秘書官東洋拓殖副総裁を経て、東洋拓殖総裁に就任[3]日本統治時代の朝鮮満州国華北南洋諸島など、大日本帝国下の植民地経営などにあたった。

また1925年から1931年まで南洋興発監査役を務めており、南洋興発が東洋拓殖の影響下にあることがわかる[4]

戦後連合国軍最高司令官総司令部により公職追放された。1960年、東京で死去[2]

栄典

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外国勲章佩用允許

家族・親族

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池邊家
  • 父・政五郎(長崎平民[1]
  • 兄、弟[1]
  • 妻・とき(工学博士・山田文太郎の養妹)[1]
1893年 -

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『人事興信録 第5版』い162-163頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月15日閲覧。
  2. ^ a b 『朝日新聞』「訃報」1960年1月13日付け朝刊9頁
  3. ^ 東京日日新聞,1939年12月26日
  4. ^ 高木茂樹「研究ノート 南洋興発の財政状況と松江春次の南進論」『アジア経済』第49巻第11号、日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年11月、26-46頁、CRID 1390853651003783680doi:10.20561/00040880hdl:2344/00007214ISSN 0002-2942 
  5. ^ 『官報』第743号「叙任及辞令」1915年1月26日。
  6. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  7. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  8. ^ 『官報』第902号「叙任及辞令」1915年8月4日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
先代
久保田政周
東洋拓殖総裁
1925年
次代
渡辺勝三郎
先代
佐々木駒之助
東洋拓殖総裁
1945年
次代
閉鎖