消滅集落
消滅集落(しょうめつしゅうらく)とは、かつて住民が存在していたが、住民の転居や死亡などで、住民の人口が0人になった集落である。無住集落、無居住集落等の表現も用いられる。
概要
編集消滅集落は特に北陸地方、四国地方に多い。農林水産研究情報総合センターのアンケートによると、回答した1,243市町村の2割以上に当たる289市町村に消滅集落があった。2015年(平成27年)以後、10年以内に消滅する可能性のある集落は570あり、もっとも消滅する可能性のある集落が多い地域は四国であった[1]。前回、2011年(平成23年)の調査で10年以内に消滅するとされた452集落の内、実際に消滅した集落は41集落、16集落は他の集落に編入、合併など単独維持ではなくなった。
「消滅せざるを得ない集落」の戸数は、4戸10人、1家族2人程度が限界の北陸、四国は限界水準が低く、6戸18人、1家族3人程度が限界の東海、近畿は限界水準が高い。集落の限界水準は地域にもよるが、5戸前後で10人から15人と考えられる。
消滅理由は地域差があり、北海道地方では「基幹作物の収益性の低下」、「耕作環境の悪化」が多く、沖縄地方では「基幹作物の収益性の低下」、「教育上の不安」が多い。また、ダム建設や豪雪や火山災害などの自然災害でも消滅することがある。
もっとも、以下に挙げる消滅集落は、ダムによる水没、災害による集団移転のほかは、とりわけ生活に困難(生活路が狭隘、険阻、集落に行くには船が必要など)だった地区が多い。新潟県の角海浜、宮崎県西都市寒川、鹿児島県の臥蛇島などは顕著な例で、ドキュメンタリーや映画にもなっている。また、田辺市中辺路町兵生、古座川町樫山などは林業や農業従事者の往来すらなく、完全な廃村となっている。
例外
編集過疎対策
編集対策として、集落移転、自治会の統合、集落排水などの生活基盤設備などが挙げられる[3]。
全体が消滅・消滅寸前例
編集消滅理由については各項も参照。
- 谷中村(栃木県) - 渡良瀬遊水池建設による退去(1906年)
- 東桜島村瀬戸・脇(鹿児島県) - 桜島の大正大噴火によって集落全体が溶岩に埋没したことにより消滅(1914年)[4]。
- 廃村八丁(京都府) - 豪雪による集団移住(1941年)
- 中辺路町道湯川(和歌山県)- 最後の住人の退去(1956年)
- 神路 (北海道中川町) - 最後の住民の退去(1967年)
- 西谷村(福井県) - 豪雪や真名川ダム建設による集団移住(1970年)
- 臥蛇島(鹿児島県) - 人口減少による艀の運行不能に伴う集団移住(1970年、無人島化)[5]
- 端島(長崎県) - 炭鉱の閉山による集団移住(同)
- 角海浜(新潟県) - 自然災害や巻原子力発電所(未成)建設による集団移住(1974年)
- 田辺市中辺路町兵生(和歌山県) - 集落再編事業による集団移住(1974年)
- 飯高町蓮(三重県) - ダム建設による集団移住(1985年)[6]
- 徳山村(岐阜県) - 徳山ダム建設による退去(1989年)[7]
- 西都市寒川(宮崎県) - 最後の住民の退去(1989年)
- 紀の川市今畑(和歌山県) - 最後の住民の死去(1998年)
- 野崎島(長崎県)- 最後の住民の退去(2001年)
- 最後の住民は沖ノ神島神社の神官で、神官が住まれていた住居は「沖ノ神嶋神社神官屋敷」として保存され、現在は一般公開されている。
- 現在は野崎島全体が世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産になっていることもあり、定期航路維持のために島内の「野崎島自然学塾村」の職員の1人が野崎島に住所を置いている。
- 古座川町樫山(和歌山県) - 最後の住民の死去(2005年)
- 江津市瀬尻(島根県) - 住民の一斉退去(2006年)
- 薩摩川内市東郷町藤川津田集落(鹿児島県) - 最後の住民の退去(2010年)[8][9]
- 紀和町花井(三重県) - 最後の住民の死去(2011年)[10]
- 田辺市本宮町三越奥番地区(和歌山県) - 2011年紀伊半島豪雨災害の被災(平成23年台風12号災害)に伴い地区が解散・住民が退去(2011年)
- 三好市双子布(徳島県) - 最後の住民の死去・退去(2014年)[11]
- 四万十町大鶴津(高知県) - 最後の住民の退去(2014年)
- 稲子(宮城県) - 2017年時点で住民1人
- 朝倉市小河内(福岡県) - 2017年に発生した平成29年7月九州北部豪雨の被災に伴い砂防ダム建設計画の浮上などもあり、2022年春に地区が解散[12]。
アイヌコタン
編集かつて北海道にはアイヌ民族のコタンが南部を中心に点々と存在し、コタン間のゆるやかなネットワークによる文化・生活・交易共同体を形成していたが、江戸時代後期から明治時代にかけて日米欧の文化が流入し、規模の大きい他のコタンや北海道外への移住などの背景や事情からアイヌコタンの消滅が進んだ。1920年代にはアイヌ出身の研究者によって当時最新の科学技術を利用するなど利便化がコタンにも流入して、英語を学んで話せるアイヌのお婆さんがいたり、コタン外の都市部へ行った仲間から得た情報によって憧憬からコタン外への移住が進んで過疎化が進んでいることが確認されている[13]。 北海道が2013年に実施した「アイヌ生活実態調査」によれば、北海道に住むアイヌ民族の人口は16,786人(66市町村)となっており、アイヌコタンが消滅した市町村、地域がある。
消滅した地域
編集(2013年アイヌ生活実態調査)[14]
アイヌ民族が100人未満となった地域
編集(2013年アイヌ生活実態調査)[14]
脚注
編集- ^ “平成27年度 過疎地域等条件不利地域における集落の現況把握調査”. 国土交通省. 2020年10月1日閲覧。
- ^ “町丁別世帯数および人口(住民基本台帳)”. 千代田区 (2020年9月15日). 2020年10月1日閲覧。
- ^ “集落消滅の実態と限界水準”. 農研機構. 2020年10月1日閲覧。
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012, p. 53.
- ^ ““知ること”の意味を知ったある無人島の取材”. 日本放送協会 (2021年12月28日). 2023年3月25日閲覧。
- ^ 「辺地教育のともしび今も "師魂"万人の胸奥に…奥井先生殉職(昭和11年) 飯高 森小蓮分校(明治18年〜昭和45年) 自転車で落石に打たれる」夕刊三重2011年1月1日付、34 - 35ページ
- ^ “徳山ダム [岐阜県]”. 一般財団法人 日本ダム協会 (2005年6月). 2020年10月1日閲覧。
- ^ “広報薩摩川内”. 薩摩川内市 (2010年5月10日). 2021年12月5日閲覧。
- ^ “8年前に無人に…愛されたふるさと なぜ消えた”. 南日本放送 (2018年4月13日). 2021年12月6日閲覧。
- ^ 高木文子「暮らし再建 まだ遠く 台風12号3カ月 続く仮設生活 住民いない古里 通い守り続ける」朝日新聞2011年12月3日付朝刊、名古屋本社版社会面37ページ
- ^ “いよいよ過疎地「消滅」へ、平均70歳超の村議会は維持も困難に”. ビジネス+IT. 2021年6月25日閲覧。
- ^ 「九州北部豪雨で被災 福岡の集落:住民戻れず苦渋の解散/砂防ダム建設で宅地減少/石碑瀬設置 子孫へ記憶残す」『日本経済新聞』夕刊2023年8月18日(社会面)2024年9月24日閲覧
- ^ 池谷和信, 長谷川政美 (2005-7). 日本の狩猟採集文化: 野生生物とともに生きる. 世界思想社
- ^ a b 公益社団法人北海道アイヌ協会 (31 March 2016). アイヌ民族の概説-北海道アイヌ協会活動を含め- (Report). 札幌市: 公益社団法人 北海道アイヌ協会. 2017年5月20日閲覧。
参考文献
編集- 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会、2012、「第2章 大正噴火の経過と災害」 (pdf)(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1914 桜島噴火)、内閣府