海馬島 (樺太)
海馬島(かいばとう、とどじま)は、宗谷海峡に存在する島。樺太島(サハリン島)の南西に位置し、晴れた日には宗谷岬を含む稚内市内や利尻島・礼文島からも見ることができる。現在は無人島となっているが、日本領時代には集落が存在した。別称として探検家ラ・ペルーズの命名によるモネロン(Moneron)島があり、ロシア語による名称(Остров Монерон)の由来となっている。現在はサハリン州の一部としてロシアが統治している。
海馬島 | |
---|---|
海馬島 | |
所在海域 | 日本海 |
座標 | 北緯46度15分39秒 東経141度13分43秒 / 北緯46.26083度 東経141.22861度 |
プロジェクト 地形 |
概要
編集古くは正保日本図において「いしよこたん」として描かれており、元禄13年(1700年)の『松前島郷帳』では西蝦夷地の離島として「いしよこたん」が記されている。寛政2年(1790年)の最上徳内『蝦夷国風俗人情之沙汰』では、「トヾシマ」についてナヨシから南に6里ないしは7里離れた海上にある島としている[1]。
文化7年 (1810年)の『黒竜江中州并天度』では「モシロヽ」として記されている[2]。文化13年(1816年)の『松前蝦夷地島図』には「トヽモシリ」として記されており、別名として「イシヨコタン」をあげる[3]。嘉永7年(1854年)刊行の『蝦夷闔境輿地全図』においても「トヽモシリ」として見える[4]。1909年発行の『東亜輿地図』では「トドモシリ島」として記載されている[5]。
1855年の下田条約(日露和親条約)から1875年のサンクトペテルブルク条約(樺太・千島交換条約)までは日露共同支配の下に置かれた[6]。1875年以降はロシア領となったが、1905年(明治38年)、日露戦争ののち日本とロシア帝国との間では講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ、北緯50度より南の樺太は日本に割譲され、海馬島も日本領となった[6]。日本統治時代は、本斗郡に属し、樺太庁真岡支庁の管轄下に置かれた。
海馬島には、島内でのみ確認される種を含む380種類の植物が自生しており、「海馬島特殊植物群落地帯」として樺太庁の天然記念物に指定されていた。礼文島とは海底山脈によってつながっている。
1941年(昭和16年)には樺太町村制がしかれて海馬村が成立し、当時、751人の居住者がいた。1945年8月にソ連軍によって占領されたが、島民は略奪や暴行を恐れ、すでに島を脱出していた[7]。
脚注
編集参考文献
編集- 天野尚樹 著「序章 樺太の地理と人びと」、原暉之・天野尚樹 編『樺太四〇年の歴史―四〇万人の故郷』一般社団法人 全国樺太連盟、2017年3月。ISBN 978-4-9909527-0-9。
- 永井豪『海馬島脱出―子どもたちの敗戦記』まつお出版、2016年10月。ISBN 978-4944168453。