海軍横須賀刑務所』(かいぐんよこすかけいむしょ)は、1973年11月17日に公開された日本映画。主演・勝新太郎、監督・山下耕作。製作・東映東京撮影所、配給・東映

海軍横須賀刑務所
監督 山下耕作
脚本 石井輝男
原作 青山光二
ナレーター 中江真司
出演者 勝新太郎
音楽 津島利章
撮影 赤塚滋
編集 田中修
製作会社 東映東京
配給 東映
公開 日本の旗 1973年11月17日
上映時間 99分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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『小説サンデー毎日』連載中の青山光二原作『喧嘩一代・帝国海軍なんのその』の映画化とするものと[1][2]、『喧嘩一代・海軍横須賀刑務所』の映画化とする文献がある[3]。勝新太郎が唯一、東映に出演した作品。コミック調の毛色の変わったアクション[4]

あらすじ

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昭和初期の海軍海兵団軍律規律が厳しく、中でも横須賀海兵団は軍律の厳しさでは特に兵隊仲間で取り沙汰されていた。沖仲仕上がりで柔道唐手の強わ者・志村兼次郎四等水兵は横須賀海兵団に入団し、古参兵の制裁に耐えるが、遂に堪忍袋の緒を切って暴れ、海軍刑務所に送られた[1][4]

スタッフ

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  • 企画:矢部恒、寺西國光
  • 脚本:石井輝男
  • 原作:青山光二
  • 撮影:仲沢半次郎
  • 録音:井上賢三
  • 照明:川崎保之丞
  • 美術:中村修一郎
  • 音楽:津島利章
  • 編集:田中修
  • 助監督:馬場昭格
  • 記録:高津省子
  • 擬斗:日尾孝司
  • スチール:藤井善男
  • 進行主任:志村一治
  • 装置:根上徳一
  • 装飾:田島俊英
  • 美粧:入江荘二
  • 美容:宮島孝子
  • 衣装:長谷稔
  • 演技事務:和田徹
  • 現像:東映化学
  • 監督:山下耕作

出演者

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ノンクレジット

製作

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本作は元々、久しくスクリーンを遠ざかっていた高倉健主演作として、1973年のお盆映画として企画されたものだった[5][6][7][8][9]。最初は高倉健主演・石井輝男監督の「網走番外地」コンビで製作が進められていたが[5][9]、後述する理由で高倉が『現代任侠史』に移り[9]勝新太郎主演・石井輝男監督に変更となりクランクインを予定していた[5]。しかし直前になって石井も『現代任侠史』に移り[5]、結果的に高倉・石井が『現代任侠史』にコンビでスライドし、石井脚本だけが本作に残り[5]、最終的に勝新太郎主演・山下耕作監督で製作された[5]。これらの変更は1973年に降って湧いた東映実録路線の抬頭と東映お家騒動が関係している。1960年代後半から燻り続けていた東映の岡田茂社長と俊藤浩滋プロデューサーの製作方針を巡る対立が1973年初頭に表面化[10][11][12][13][14][15][16][17][18]。岡田茂が既に完成していた鶴田浩二主演の『三池監獄 兇悪犯』をお蔵入りさせ(1973年5月公開)[18]、1973年4月後半公開を予定していた高倉健主演の「新網走番外地」の新作を中止させるなど[18]、1973年東映ラインアップに岡田が、ギャラの高い割にお客の入らない当時の東映スター・ローテーションの軸・鶴田浩二と高倉健を外して、二人の製作予定映画を0にし[10][15][17][18][19][20][21]、「子連れ狼」出演を止めない若山富三郎も東映ラインアップから外し[22]菅原文太梅宮辰夫千葉真一松方弘樹渡瀬恒彦安藤昇梶芽衣子池玲子杉本美樹谷隼人中村英子ら、次世代スターをフル回転させ、新路線開拓を狙うラインアップを組むと俊藤に相談なく決定しかけたことで[10][18][19][20][23]、鶴田や高倉、若山、菅原をかこっていた[21][24]俊藤の怒りが爆発した[12][16][17][18]。1973年の正月映画第二弾『仁義なき戦い』が鶴田、高倉抜きで大ヒットしたことから、岡田は鶴田、高倉抜きでも新しい路線を作れるという自信を持っていた[17]。また岡田の腹心・高岩淡東映京都撮影所所長と片山清企画製作部長が俊藤を嫌っていた[15][17]。俊藤は高倉のギャラアップ(一説に一本2,500万円)などを岡田に要求したとされたが[15][21][注釈 1]、岡田はこの時代では珍しい「ギャラを歩合制[注釈 2]にするなら鶴田と高倉の作品を作る」と俊藤に言い渡して紛糾した[21]

同年3月、関東東映会の佐々木進会長を立て表面上の和解がなされたものの[9][11][12][17][18][26][27]、『仁義なき戦い』が大ヒットし、岡田企画の[28][29]やくざと抗争 実録安藤組』も3月にヒットしたことで[28][29][30]、岡田が任侠路線を打ち切り[11][31][32][33][34][35]実録路線への変更を即断で決めたため[13][20][32][33][36][37][38][39][40]、純"任侠映画"にこだわる俊藤とは実際は和解には至らず[39][37][41][42]新聞誌上で岡田を誹謗した鶴田は[43]、若山に続いて一年半、映画を干された[42][44][45]。高倉も岡田から高倉プロの撤回を要求され、ギャラアップの要求も蹴られるなどで確執があり[15][42][46][47]、東映作品の出演を拒むようになっており[15][16][46]、この騒動の時にトップスターたちのテレビや他社出演も従来より柔軟な姿勢で対処していくという申し合わせがなされた[16]。菅原文太も俊藤派と見なされていたが[15]、菅原は岡田を「時代に吹く風を敏感に嗅ぎ分け、時代の変化に即応し、新しいジャンル、新しい路線を貪欲に打ち出す才能を持っていた」と評価していたため[48]、円満解決して欲しいという思いが強く[15]、岡田と俊藤の板挟みに苦しんだ菅原は、沈黙を貫き、お咎めなしになっていた[42][49]。岡田と俊藤の手打ち式による高倉の東映戦列復帰第一作として[9]、やはり高倉にふさわしい「番外地シリーズ」で行こうと[9]、1973年春に夏のお盆映画として発表されたのが本作であった[6][9]

キャスティング

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しかし、この年の実録路線の抬頭で[50]、二年前に一度世論を気にして断念した『山口組三代目』を製作するには絶好のチャンスと[50]、この年全く製作を考えていなかった『山口組三代目』をお盆映画にする可能性が高まった[9][50]。『山口組三代目』は岡田が徳間康快と組んで映画化したものだが[27][51]、俊藤も同じ企画を進めていたこともあって[11]、本作と『山口組三代目』のどちらを製作するか1973年初夏まで決まらなかったが[50]、結局、岡田と俊藤の手打ち式による高倉の東映戦列復帰第一作は『海軍横須賀刑務所』ではなく『山口組三代目』になった[9][11][27][32]。高倉が『山口組三代目』で田岡一雄を演じたのは単にスライドだけだった可能性もある。また東映ポルノや劇画路線などと併せ[39][40]、"実録もの"の全力注入の方針変更で[36]、1973年ラインアップに最初は全く予定していなかった『山口組三代目』、『仁義なき戦い』の続編、『実録 私設銀座警察』、安藤組の続編などがラインナップに上がり[36][40][37][52]、またそれらのロングランもあり、この1973年に"実録の東映"、というイメージを作り上げたが[39]、この影響で岡田が春先に話していた『実録連合赤軍』など[53]、予定した映画が延期されたり、中止になったりし[54]、本作は秋に押し出された[7][55]。岡田は『仁義なき戦い』の大ヒット直後に[37]、"実録路線"という言葉を使っており[37]、「実録路線は、やくざものとはかぎらない」と話し[37]、"岡田茂の『事件が起きたら即、映画』術"と評されるように[56]黒い霧事件を扱う『実録・プロ野球・黒い霧事件』(荒川尭#引退後)、『実録・連合赤軍』[37][57][53]、『実録大映興亡史』[37]、有名な『実録・共産党[57][58]などを企画していた[37][57]。『実録大映興亡史』は大映永田雅一の功績を讃えつつ、真の目的は、いずれビデオの時代が来るとソフトが不足すると読み[37]、テレビでまだ未放映の『羅生門』を始め、多くの名作を持つ会社再建中だった大映の旧作の版権を安く買いたたけないか企んでいたといわれる[37]。これらは実録ヤクザ映画を優先したため、映画化されなかった。

タイトル

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本作の最初のタイトルは『水兵やくざ』[7]、『海軍横須賀番外地』[2][8][6]、1973年夏には『海軍番外地・横須賀』などと報道され[50]、「網走番外地」の海軍版として[7]、知名度の高い"番外地"のタイトル起用が有力視されていたが[8][59]、高倉がアメリカ映画ザ・ヤクザ』の出演が決まったため、その配慮からタイトルから"やくざ"を外したとされる[7]。当時、日本の"やくざ"という言葉が欧米で浸透し始めていたといわれ[7]、東映としては"カラテ映画"に続いて"ヤクザアクション"が欧米でもウケるのではないかという期待があった[7]。東映は1973年9月にニューヨークで現地のバイヤーを集め、『賞金稼ぎ』 『緋牡丹博徒』『人斬り観音唄』などのデモンストレーション上映を行った[7]。また岡田社長がこの頃から[60]、「輸出映画を作って稼いでいかなければならない」と東映国際部に東映作品の海外セールスを積極的に行うよう指示を出していた[60]東映洋画が発足から一年経ち[61]、欧米の作品買付けも増え[61]、この年、フランステレモンデアルに『仁義なき戦い』『徳川セックス禁止令 色情大名』『女番長』『女囚701号/さそり』が[7]、同じフランスジェルビアックに『やくざ刑事[7]西ドイツヘルメヌシンクロに『賞金稼ぎ』が[7]イタリアデアに『パンダの大冒険』が売れ[7]、それまで東映作品の欧米への輸入は東映動画の一部作品に限られていたため[7]、契約額はどれも約二万ドル(当時の日本円で530万円)と極端に安いが[7]ブームになれば取引額も高額になることから、東映のアクションものヨーロッパでブームを興す切っ掛けにならないかという期待を持っていた[7]。『ザ・ヤクザ』は当初、鶴田浩二も出演予定があった[7]

勝新太郎の東映初出演

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先述のお家騒動の後、秋の高倉主演映画は『現代任侠史』が予定に挙がっていた[7][62]。本作が秋に押し出され、秋の高倉主演映画が二本になったため、本作の主演が勝新太郎に交代したものと見られる[1][7]。勝の東映初出演は、東映専属にもかかわらず[7]、勝プロ製作・東宝配給で「子連れ狼」に出演し続ける若山富三郎のバーター[7]。製作会見は1973年9月19日に東映本社で行われ、席上、勝は「クツの裏にべったりと土がついたような陸軍と違って海軍コンクリートのイメージだから、実はオレの味と合わんのじゃないかと心配なんだが、久しぶりに俳優一本でやれるので喜んでいる。東映初出演といっても別にどうってこともないし、俳優はカメラの前に立ったら常に全力でやるだけだ」などと話した[1][7]

岡田茂は1971年夏の東映社長就任後、当時不振に陥っていた大映日活渡哲也高橋英樹関根恵子[63]、両社からあぶれたスターの引き抜きを画策し[63]、"映画スター乗っ取り"を目論み[63]、一方で当時元気だった勝や、三船敏郎石原裕次郎ら、独立プロを主宰するスターの製作映画については、大手映画会社で唯一、「ウチでは配給をしない」と表明していたことから、勝はこれにカチンときて、「オレは東映には出ないよ」と宣言していた[63]。岡田と勝は仲が悪かったとされる[64]。「子連れ狼」を続ける若山は1972年3月に[22]、東映の専属リストから削除され[22]、その後、東映から一年半干されていたが[22][65]、この年6月公開の『釜ヶ崎極道』で東映の番線に復帰した[66]

監督の変更

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石井輝男が本作を撮る準備をしていたら俊藤が石井を訪ねてきて、「高倉があなたと一緒にやりたいと言っているから『現代任侠史』の方に監督を替わってくれ」と石井に言った[5]。石井は勝と仕事をするのに気が乗らなかったため[5]、渡りに船とばかりに橋本忍の脚本もろくに読まずに『現代任侠史』の監督に代わり[5]、本作の監督は山下耕作になった[5]。『現代任侠史』は本作の製作会見があった1973年9月19日の三日後、1973年9月22日に東映京都撮影所クランクインした[2]。『海軍横須賀刑務所』は東映東京撮影所製作。

撮影記録

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1973年9月21日クランクイン[2]

作品の評価

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興行は振るわなかったとされ[67]キネマ旬報は「いまさら勝新太郎の兵隊やくざ的映画なんて東映ファンは見る気はしないのでは」と評した[67]。シリーズ化の構想もあったが[1]、一本だけの製作に終わった。

影響

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勝が勝プロで東映専属の高倉を借りて、高倉と共演したいという含みを持って本作に出演したかは分からないが、高倉は本作代役出演のお礼として[68]、翌1974年の勝プロ製作・東宝配給の『無宿』で初めて他社出演に応じ[68][69]、勝と共演した[70]

脚注

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注釈

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  1. ^ 鶴田、高倉の当時のギャラは一本1,000万円以上とされたが[18]、菅原などその他の俳優のギャラは一本200万円以下だった[18]
  2. ^ 歩合契約は1977年の『八甲田山』の高倉健が日本では初[25]。同作の興収25億円の大ヒットで、基本ギャラ1500万円に後から3000万円が高倉の懐に入った[25]

出典

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  1. ^ a b c d e “勝新太郎が東映映画に出演 青山光二原作の海軍暴れ者”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 3. (1973年9月22日) 
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  3. ^ “東映五、六月の確定番組 俊藤参与今後方針語る”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1973年4月21日) 
  4. ^ a b “封切映画興行記録 海軍横須賀刑務所”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 3. (1974年11月24日) 
  5. ^ a b c d e f g h i j 石井輝男福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、221-223,349頁。ISBN 4948735086 
  6. ^ a b c 「高倉健の新作『海軍横須賀番外地』」『キネマ旬報』1973年5月下旬号、キネマ旬報社、152頁。 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 「映画界東西南北談議 例年不調の季節をどう乗りきるか」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、34頁。 
  8. ^ a b c 「映画界東西南北談議 多角経営を積極化する映画会社 映画界の春斗も記録的な要求」『映画時報』1973年5月号、映画時報社、33頁。 
  9. ^ a b c d e f g h i 「ニューズオブニューズ『番外地』は消えたけど‥…"やっぱり高倉健は任侠路線だ"」『週刊読売』1973年8月4日号、読売新聞社、37頁。 
  10. ^ a b c 今村三四夫 (1973年3月10日). “製作事情内紛で暗かった東映問題 三者会談和解成る岡田、俊藤、佐々木三氏発言/今週の日記から 東映お家騒動解決の発表”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1 “ゆく年、くる年 十大ニュースに代えて、行く年の反省とくる年の思惑”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1973年12月15日) 
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  14. ^ 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、81-82頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
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  44. ^ 「苦節一年半"男の涙" 鶴田浩二スクリーン復帰の舞台裏」『週刊ポスト』1974年7月19日号、小学館、52頁。 河原畑寧「洋画ファンのための邦画ジャーナル 藤純子も出演か?東映オールスター大作『あゝ決戦航空隊』」『ロードショー』1974年8月号、集英社、230頁。 
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  47. ^ 「高倉健」のお骨を口に入れ“アチチ”と火傷した「東映会長」脇田巧彦「映画・私生活・ファンのこと 『総長への道』撮影中の高倉健にきく」『キネマ旬報』1971年3月20日増刊号 任侠映画大全集、キネマ旬報社、78 - 81頁。 
  48. ^ 「一代の梟雄・岡田茂 文・菅原文太」『文藝春秋』2011年 8月号、文藝春秋、81-83頁。 
  49. ^ 「ウの目タカの目スター不在の来年版カレンダー」『週刊文春』1974年8月12日号、文藝春秋、21頁。 
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  52. ^ 「映画界東西南北談議 邦画陣には明るい見通し 減税にはなったが多難な映画界」『映画時報』1973年2月号、映画時報社、32頁。 
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  54. ^ 「映画界東西南北談議 粒揃いの各社の企画ラインアップ」『映画時報』1973年3月号、映画時報社、34頁。 “東映三月までの決定番組実録ものに全力を注入!”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1973年2月3日) 日本シナリオ作家協会 編「作品解説 文・鬼頭麟平」『年鑑代表シナリオ集 '73』ダヴィッド社、1974年、316頁。 「映画界東西南北談議 邦画陣には明るい見通し 減税にはなったが多難な映画界」『映画時報』1973年2月号、映画時報社、32頁。 “東映の九月一週番組決る 実録もの企画連続登場”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 7. (1973年7月21日) 黒井和男「一九七三年度日本映画/外国映画業界総決算 日本映画製作」『キネマ旬報』1974年2月上旬号、キネマ旬報社、96-98頁。 
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  57. ^ a b c ニッポンの「超大作映画」秘史が全部わかる!<仰天真相・なぜかポシャった「幻の企画書」たち>
  58. ^ 笠原和夫荒井晴彦絓秀実『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』太田出版、2002年、344-346頁。ISBN 4-87233-695-X 
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  64. ^ “なになにッ!披露宴帰りの岡田さんと勝っつぁん酒の席でとんだ"披露怨"?”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年7月30日) 
  65. ^ 井沢淳・鳥畑圭作・土橋寿男・高橋英一・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1972年5月上旬号、キネマ旬報社、132頁。 波多啓「映画界の動き 東映の73年度経営方針」『キネマ旬報』1973年2月下旬号、キネマ旬報社、163頁。 “首脳陣年初の言葉 四八年度経営方針 東映岡田茂”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 2. (1973年1月13日) 
  66. ^ “東映六~七月確定番組発表 若山久しぶりの東映作出演”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 3. (1973年5月26日) 
  67. ^ a b 「映画館秋の邦画新作討ち死にし、洋画も低調…」『キネマ旬報』1974年1月上旬号、キネマ旬報社、184頁。 
  68. ^ a b “大作挑戦の布陣が目立つ邦画各社の九月以降態勢”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1974年8月17日) 
  69. ^ “永田さんの一徹、城戸会長を動かす 再起映画、松竹が配給 『君よ憤怒の―』やっと撮影へ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年9月5日) 
  70. ^ 「健さん勝新共演の『無宿』クランクイン」『週刊読売』、読売新聞社、1974年8月31日号、35頁。 

外部リンク

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