波多野貞之助

日本の教育者

波多野 貞之助(はたの ていのすけ、元治元年8月26日[1]1864年9月26日) - 大正12年(1923年8月18日[2])は、日本教育者

波多野 貞之助
誕生 (1864-09-26) 1864年9月26日元治元年8月26日
常陸国新治郡常名村(現・茨城県土浦市
死没 (1923-08-17) 1923年8月17日(58歳没)
職業 教育者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 高等師範学校初等中学師範学科
代表作 『ライン氏教育学』(1901年)
『教育学』(1907年)
親族 高吉(弟)
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経歴

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土浦藩士の家に生まれる。1887年(明治20年)、東京高等師範学校を卒業し、茨城県師範学校教諭となった。その後、東京高等師範学校教諭となり、1892年(明治25年)からドイツに留学した。1896年(明治29年)に帰国した後は、東京高等師範学校講師、同教授を務めた。また東京女子高等師範学校教授や東京高等師範学校附属中学校主事を兼任した[3]

家族

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  • 父・波多野弘 ‐ 土浦藩(土屋家)の江戸詰め下級武士。維新後土浦に戻り帰農したがうまくいかず貞之助の就職を機に一家で上京。[4]
  • 母・いち(1846-) ‐ 土浦藩士・神谷伝の二女。[5]
  • 弟・波多野高吉(1867-) ‐ 弘の二男。判事。東京帝国大学法科大学卒。[5]
  • 妻・タキ(1875-) ‐ 島根県安濃郡役所書記・長谷要太郎の妹。[5][6]
  • 姪・福永操 ‐ 高吉の娘。[4]

著作

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著書
訳書

脚注

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  1. ^ 人事興信録 1918.
  2. ^ 『官報』第3318号、大正12年8月21日。
  3. ^ 官報』第1414号、大正6年4月21日。
  4. ^ a b 『あるおんな共産主義者の回想』福永操、れんが書房新社、1982、p12-13
  5. ^ a b c 波多野貞之助『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  6. ^ 島根県職員録 明治30年1月現在p30

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 

関連文献

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  • 『教育』第381号、茗渓会、1914年12月
  • 後藤胤保 「噫波多野貞之助先生」(『教育研究』第262号、初等教育研究会、1913年9月)
  • 木内陽一 「近代日本におけるヘルバルト派教育学の受容と展開 : ヴィルヘルム・ラインを中心に」(林忠幸森川直編 『近代教育思想の展開』 福村出版、2000年2月、ISBN 4571101252
  • 渡辺登 「波多野貞之助」(富田仁編 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』 日外アソシエーツ、2005年7月、ISBN 4816919333

外部リンク

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公職
先代
主事事務取扱
大瀬甚太郎
  東京高等師範学校附属中学校主事
1910年 - 1917年
次代
稲葉彦六
先代
主事
小泉又一
主事
森本清蔵
  東京高等師範学校附属小学校主事事務取扱
1909年 - 1910年
1902年 - 1903年
次代
主事
佐々木吉三郎
主事
小泉又一
先代
高等師範学校附属校園主任
岡五郎
  高等師範学校附属学校主事心得
1891年 - 1892年
主任心得
1890年 - 1891年
次代
主事心得
豊田恒雄