沖の島 (高知県)
沖の島(おきのしま)は、日本の四国・高知県南西部にある島。宿毛市片島の沖合約24kmに位置する[1]。面積10.02km2[1]。海岸線長約17km、東西約3.5 km、南北約5.8 km。最高所(妹背山頂)標高は 404.1m。足摺宇和海国立公園指定地域の一つ。島内集落は「島の宝100景」選定地域の一つ。
沖の島 | |
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市営船から土佐沖の島を展望 | |
所在地 | 日本(高知県) |
座標 | 北緯32度43分39秒 東経132度33分17秒 / 北緯32.72750度 東経132.55472度座標: 北緯32度43分39秒 東経132度33分17秒 / 北緯32.72750度 東経132.55472度 |
面積 | 10.02 km² |
海岸線長 | 17 km |
最高標高 | 404 m |
プロジェクト 地形 |
沖の島は島内に令制国の国境があり、土佐国・伊予国にまたがっている。また、古称は「いもせのしま(妹兄島、妹背島)[2]」であった可能性が高い。日外アソシエーツ編『島嶼名 漢字よみかた辞典』は、別名として、沖ノ島(おきのしま)、土佐沖の島(とさおきのしま)、妹背島(いもせじま)を挙げている。
概要
編集沖の島は、四国の最南端である足摺岬の西方約40km、旧・片島港(宿毛湾港の一角。宿毛市片島に所在)から南西へ約25kmの太平洋上に浮かぶ離島・有人島である。標高404mの妹背山を中央に頂き、水量豊かな谷川がある。全島が花崗岩で形成されている。海岸部は大部分が断崖絶壁であり平地は少ない[1]。また、周りには透明度30メートルの海が広がり、日本一の魚種の宝庫といわれている。
人口(国勢調査結果)は、1990年(平成2年)時点で530名、1995年(平成7年)時点で400名、2000年(平成12年)時点で314名、2005年(平成17年)時点で236名、2010年(平成22年)時点で194名[3]。沖の島の居住地域は、母島、弘瀬、古屋野、久保浦、長浜の大小5つの集落で構成されており[3]、北は母島を南は弘瀬を中心とする。市役所支所を始めとして、漁業協同組合支所、郵便局、小中学校、診療所、非公共用ヘリポートなどの施設がある。島の集落はそれぞれ「母島部落」「弘瀬部落」などと呼ばれる。集落地は石垣と石段の造りが一つの景観を成していて、キャッチフレーズにも採用されている。
基幹産業は漁業だったが、漁業者は高齢化や担い手不足から減少しており、かわって渡船業やダイビング業など海洋レジャー産業が盛んになっている[1]。島内では通常観光やエコツーリズムのほか、磯釣りやマリンスポーツ(スクーバダイビング、カヌーなど)、その他の娯楽やスポーツ(登山やマウンテンバイクなどを含む)を楽しめる島として人気を集めている。
従来の足摺国定公園に宇和海地域等[* 1] が追加指定された1972年(昭和47年)11月10日、足摺宇和海国立公園の指定地域の一つとなった。また、2009年(平成21年)4月10日には、沖の島と鵜来島の島内集落が「石垣・石段とともにある暮らし」名義で「島の宝100景」に選定された[4]。
地勢
編集孤立小型離島[3] で外海離島、有人島で有人離島[* 2]、離島振興法指定離島[* 3][5] で一次離島[* 4]。
東に蒲葵島と幸島[6][* 5]、北に裸島[6][* 6] と二並島[6][* 7]、北西に鵜来島[6][* 8]、西に三ノ瀬島[6][* 9]・姫島[6][* 10]・水島[6][* 11] があり、これらの島々の中で沖の島が最も大きい。
地理的に最も近い四国本土の地域は大月半島(高知県幡多郡大月町)であるが、現在行政上では、大月町の北に位置する宿毛市に属し、裸島・二並島・沖の島・鵜来島・三ノ瀬島・姫島・水島の7島などで沖の島町(おきのしまちょう。宿毛市の成立以前に存在した沖ノ島村と地域的変更なし)を構成する(有人島は鵜来島と沖の島のみ)。沖の島内の行政区画は北の「沖の島町母島(もしま)」と南の「沖の島町弘瀬(ひろせ)」に分かれる[7][* 12]。
沖の島は島内に国境があり、伊予国と土佐国にまたがっている。北部・母島側は伊予国となり、かつては宇和郡に、南部・弘瀬側は土佐国で、かつては幡多郡に属していた。江戸時代には伊予側の母島は宇和島藩、土佐側の弘瀬は高知藩が治めた。明治時代になり廃藩置県が実施され、変遷を経て、母島は愛媛県、広瀬は高知県になる。明治9年に母島が高知県に移管され、幡多郡に属した(詳細は「歴史」の項を参照。
歴史
編集開拓伝説
編集島の北西部の母島部落には鎌倉出身の山伏の開拓伝説 (cf.) が、南西部の弘瀬部落には島祖といわれる三浦則久一族の開拓伝説 (cf.) がある。弘瀬の三浦家は、関東武士団の一つで相模国の三浦半島を本貫とする三浦氏の一派と考えられる。本貫の三浦氏は宝治元年6月5日(1247年7月8日)に起こった宝治合戦(三浦氏の乱)に敗れて鎌倉を追放されているので、歴史上の整合性は高い。これら2つの伝説が事実を反映しているとすれば、いずれにしても沖の島に人が住み始めたのは鎌倉時代の前期か中期であった。
ただし、より古い平安時代の妹兄島伝説なるものもあり(※『今昔物語集』出典。cf.)、この時代にはすでに定着民がいた可能性も無いわけではない。間違いなく脚色されている妹兄島伝説のどこかに最初期の開拓者たちの事実が含まれているのか、それともそのようなものは無く全て架空の創作物語なのかは、今日まで伝えられた事柄だけで判断することができない。そのため、妹兄島伝説は絵空事同然という見なされ方をしている。
また、同様の伝説は『今昔物語集』だけでなく、『宇治拾遺物語』にも収録されており、非常に似通ったものとなっている。他にも昭和45年の調査で『沖ノ島のはじまり』が採取されている他、『ハンガイ森の兄妹』についても類似性が確認されている。[8]
弘瀬側島民のアイデンティティとしては、古来、弘瀬の一般島民は「『ミウラさん』率いる家臣団の末裔である」という認識で一致している。そのようなことで、戦後(第二次世界大戦後)に至るまで、弘瀬側島民の間での言い伝えは「平家の子孫」として誇りをもつことで苦しい漁民生活における精神的支柱となることが少なくなかった。
土予国境争い
編集徐々に土佐と伊予の勢力が沖の島へと及び、室町時代には島が両国によって分断される。江戸幕府藩政時代に入ると、再び領有権問題が勃発し、幕府の法廷により、土佐藩と宇和島藩との領土争いが展開された。国境争いは土佐藩家老・野中兼山の活躍などにより、土佐側の主張がほぼ認められる形で決着し、島内に土予国境が確定した[9]。このような歴史的経緯により、弘瀬側は土佐、母島側は伊予と一つの島に異なる伝統や風習が語り継がれ、現在でも独自の風土を形成している。
年表
編集先史時代
編集- 中生代白亜紀 - 四万十層群の形成期の始まり/新生代新第三紀まで形成され続ける付加体。
- 新生代新第三紀中新世前期 - 四万十層群の南帯地域で、新生代古第三紀以来続いてきた古第三系の形成が終焉を迎える。四万十層群の三崎層群上で、島嶼として沖の島が出現。
古代
編集- 平安時代末期 - 地名「妹兄島」の初出、妹兄島伝説の登場/平安京にて『今昔物語集』が編纂される。同書の巻第26第10話に「土佐國妹兄行住不知島語(書き下し:
土佐国 の妹兄 、知らぬ島に行 き住 める語 )」と題して、妹兄島(いもせのしま)の説話が収められた。説話自体は、他にも数多く見られる「漂流して南方の無人島に辿り着いた兄妹が二人きりで生き延びて夫婦となり[* 13]、やがて一族の祖となる」南海漂流開拓譚で、今に名を残す「妹背山」の「いもせ(妹背/妹兄)」を元に創出された由来話である可能性が高い(※幡多郡の子で恐らくは宿毛湾あたりから潮に流された二人が孫の代まで帰郷したり故郷に人を向かわせたりできないほどには、沖の島は往き来し難い場所ではない。その意味でも山名に由来と見るか、失われた実話の漂流開拓伝説化と考えられる)が、割と詳しい描写に加え、「今昔土佐國幡多郡住下衆有(※書き下し:今は昔、土佐国 幡多郡 に住みける下衆 有りけり)」に始まって「土佐國南沖妹兄島有人語(※書き下し:土佐国 の南の沖に妹兄島 とて有りとぞ、人 語 りし)」などという記述もあり、同書における「妹兄島」は現在の沖の島と比定し得る。
中世
編集- 元久2年(1205年、鎌倉時代前期) - 山伏の開拓伝説/母島部落の開拓伝説によれば、この年、無人であった沖の島に鎌倉の山伏が上陸し、母島地区に住み着いた。
- 13世紀前半頃(鎌倉時代中期) - 地名「妹背島」の初出/平安京にて『宇治拾遺物語』が著される。同書の巻第4第4話(通巻第56話)「妹背島の事」は、先の『今昔物語集』巻第26第10話 の焼き直しであった。
- 史料:『宇治拾遺物語』巻第四 妹背島の事 第四 [4]
- 鎌倉時代中期 - 三浦一族の開拓伝説/弘瀬部落の開拓伝説によれば、鎌倉幕府の幕臣・三浦則久(三浦新助則久)は何らかの事情あって失脚し、一族郎党を従えて、伊予国三津浜から船出、沖の島に漂着した後、妹背山南麓の仏が峠(標高340m)に居を構えて開墾し、のちに弘瀬地区に移って開拓・統治した。
- 室町時代 - 沖の島に土佐の勢力と伊予宇和島の勢力の支配の手が伸びる。北部は伊予、南部は土佐の勢力によって治められるようになる。これによって島の南北で異なる文化も育めれ始める。
近世
編集- 慶長8年(1603年、江戸時代初年) - 室町時代以来の土佐・伊予の領土争いが、土佐藩と宇和島藩に引き継がれる。
- 江戸時代初頭 - 三浦家は、かねてより弘瀬部落を治めていたが、江戸幕藩体制下でも幕政村の長、すなわち庄屋を務めることとなる。その後、江戸時代全期に亘ってこれを務めた。
- 万治2年(1659年、江戸時代初期) - 島内における土伊国境争いは江戸幕府の裁定を仰ぐ形になり、土佐藩家老・野中兼山の尽力が功を奏して、土佐側の主張がほぼ認められる形で国境が確定した。
明治時代
編集- 明治元年(新暦換算:1868年/1869年) - 『旧高旧領取調帳』の記載に基づき、宇和島藩領であった伊予国宇和郡の村浦の中に、母島浦、久保浦、小矢野浦、および、鵜来島あり。
- 明治4年7月14日(新暦換算:1871年8月29日) - 全国で廃藩置県が断行される。伊予国と土佐国では宇和島藩・高知藩(土佐藩)等が廃され、替わって宇和島県と高知県が置かれる。これに伴い、大月半島の西南沖に所在する島嶼部全域を含む宇和郡は、宇和島県に編入される/係る島嶼部全域は有人島と無人島を含むが、有人島は沖の島と鵜来島のみである。弘瀬浦の名は当時の一次資料である『旧高旧領取調帳』に記載は無い。
- 明治5年6月23日(新暦換算:1872年7月28日) - 宇和島県が神山県へ改称される。
- 1873年(明治6年)2月20日 - 神山県と石鉄県が統合されて愛媛県が発足。
- 1876年(明治9年)2月25日 - 母島浦・久保浦・小矢野浦・鵜来島の所属県と所属郡が、愛媛県宇和郡から高知県幡多郡に変更される。同日、母島浦・久保浦・小矢野浦が新設合併して母島を発足する。
- 1879年(明治12年)1月4日 - 高知県での郡区町村編制法の施行により、幕政時代から踏襲されていた郡に替わって近代行政郡としての幡多郡が発足する。同日、母島が母島村に改称し、旧母島の母島浦・久保浦・小矢野浦・鵜来島は母島村の字に変わる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 幡多郡で町村制が施行される。島嶼部では、母島村、弘瀬村、鵜来島が新設合併したうえで村制を施行し、沖ノ島村を発足する。旧自治体名は、沖ノ島村の大字「母島」「弘瀬」「鵜来島」に変わる。
大正時代
編集- 1917年(大正6年)5月10日 - 沖ノ島村弘瀬(現・宿毛市沖の島町弘瀬)にて、荒木初子の誕生/長じての初子は、無医村であった沖の島・鵜来島を兼任する駐在保健婦として長年に亘って貢献することとなる。
昭和時代
編集- 1930年(昭和3年) - 母島港近くにて、旅館「望洋館 澤近」の創業・開館[10]/この旅館は29年後の1959年(昭和34年)に釣り客相手の渡船業を島で最も早く始める。
- 1933年(昭和8年)
- 太平洋戦争中 - 四国防衛の要衝として沖の島区域の軍事基地化が進められる。沖の島には特殊潜航艇基地やレーダー基地など、鵜来島には大砲などが整えられ、本土決戦の準備が着々と進む。
- 1944年(昭和19年)3月18日 - 沖ノ島村弘瀬にて、長じて漫才師・横山やすしとなる小川雄二の誕生/ただ、生後3ヶ月で、高知本土に疎開していた木村家の養子に入り、戦後は大阪府堺市(現・堺市堺区)の木村家自宅にて幼少期を過ごすこととなる。
- 1945年(昭和20年)
- 昭和20年代後半(1950年-1955年間) - 弘瀬部落が人口において最盛期を迎える/住民は千数百人を数えた[11](※その後、過疎化が進んで2016年時点では100人を切っている[11])。
- 1954年(昭和29年)3月31日 - 幡多郡の宿毛町・小筑紫町・橋上村・平田村・山奈村・沖ノ島村が新設合併したうえで市制を施行し、宿毛市を発足する/これをもって沖ノ島村は消滅し、宿毛市沖の島町となる。旧沖ノ島村の大字は、そのまま宿毛市沖の島町の大字に変わる。
- 1959年(昭和34年) - 沖の島で、磯釣り客を対象とする渡船業が始まる[10]/母島港近くの旅館「望洋館 澤近」が「澤近渡船」を創業[10]。これは沖の島で最初の渡船業者で、その後の磯釣りブームの礎となった[10]。
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)9月21日 - 全国にて日活映画『孤島の太陽』の公開/本作は、伊藤桂一の小説『[「沖ノ島」よ私の愛と献身を』を原作とした映画である。
- 1972年(昭和47年)11月10日 - 従来の足摺国定公園に宇和海地域等が追加指定された。この時、沖の島全域も足摺宇和海国立公園指定地域の一つとなる。
- 1976年(昭和51年)3月 - 母島港の防波堤にて、土佐沖ノ島港母島第3防波堤灯台の初点灯・供用開始。
- 1982年(昭和57年)3月 - 母島にて、吉井勇歌碑の建立。
- 1985年(昭和60年)3月 - 土佐沖ノ島灯台の改築。
平成時代
編集- 1990年(平成2年)12月 - 土佐沖ノ島港母島第3防波堤灯台の改築。
- 2004年(平成16年)
- 4月1日 - 母島小中学校と弘瀬小中学校の統合による、宿毛市立沖の島小中学校の創立[12]。
- 4月7日 - 宿毛市立沖の島小中学校の開校[12]。
- 5月1日 - この時点で、沖の島小中学校の在校生は10名(児童7名、生徒3名)、教職員数は資料なし[12]。
- 5月某日 - 沖の島観光協会主催のイベント「沖の島アドベンチャーラン」の初開催[13]/2004年は「沖の島アドベンチャーラン2004 マラソン&ウォーキング」と銘打って、島内の様々な場所をコースに採り込んだ、マラソンとウォーキングのイベントが行われた[13]。以後、サイクリング、カヌー、スイミングなども加えて開催年と開催月によって異なる競技を行う大会として定着してゆく。
- 10月某日 - 沖の島アドベンチャーラン2004 MTB の開催/10月はマウンテンバイク (MTB) のイベントで、自転車走行不可能な集落の石段や妹背山山頂までコースに採り込んで行われた[13]。
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 2016年(平成28年)
- 2017年(平成29年)
- 4月1日 - 沖の島集落活動センター妹背家開所。
- 2020年(令和2年)
- 4月1日 - 沖の島中学校再開。
供用施設等
編集- 宿毛市役所
- 沖の島支所 - 沖の島町母島1003に所在。
- 弘瀬連絡所 - 沖の島町弘瀬362-2に所在。
- 沖の島支所 - 沖の島町母島1003に所在。
- 沖の島開発総合センター - 宿毛市役所沖の島支所に所在。標高30m。津波避難所、長期避難所。[16]
- 弘瀬離島センター - 沖の島町弘瀬562-1に所在。津波避難所、長期避難所。
- 古屋野老人憩の家 - 母島古屋野(母島1386)に所在。標高49m。津波避難所、長期避難所。[16]
- 弘瀬老人憩の家 - 沖の島町弘瀬362-2に所在。津波避難所、長期避難所。
- 母島港 - 沖の島町母島958付近に所在。
- 沖の島漁港(古屋野) - 母島古屋野に所在。
- 弘瀬港 - 沖の島町弘瀬に所在。
- 沖の島漁港(弘瀬) - 弘瀬港に所在。
- 沖の島漁港(久保浦) - 久保浦に所在。
- すくも湾漁業協同組合 沖の島支所 - 沖の島町母島958(母島港)に所在。
- 土佐沖ノ島灯台
- 土佐沖ノ島港母島第3防波堤灯台
- 高知県道358号沖ノ島循環線
- 沖の島ヘリポート
- 沖の島町母島字尻無尾山1717-16[18]、沖の島小中学校に比較的近い山中に所在。幡多西部消防組合消防本部の設営する非公共用ヘリポート[18][* 14](北緯32度44分22.25秒 東経132度33分37.49秒[18])。高知空港との距離は約74km[18]。滑走路面積 21×18 m2。
- 宿毛市立沖の島中学校
- 宿毛市立沖の島小学校
- 宿毛市立[19] 沖の島保育園
- 宿毛市立沖の島へき地診療所 - 沖の島町母島1005(宿毛市役所沖の島支所近傍)に所在。
- 弘瀬出張所 - 沖の島町弘瀬344に所在。
- 母島郵便局 - 沖の島町母島953に所在。
- 弘瀬簡易郵便局 - 沖の島町弘瀬332に所在。
- 沖の島集落活動センター妹背家 - 沖の島町母島958に所在。センター内の「島の駅いもせや」にて、火曜日を除く毎日15時から16時の1時間に商店としての営業を行なっている。[20]
産業
編集第一次産業は、かつての基幹産業であったが、地域の高齢化や担い手不足の影響は大きく、衰退の一途を辿っている[3]。漁港は、北西部の母島漁港、南西部の弘瀬漁港、北東部の久保浦漁港の3港があり、かつてはキビナゴ漁が盛んであった。魚介類は何でも美味い。昔は一本釣りの専門漁業者が多かったが、2010年代では珊瑚礁での漁にシフトしている業者が多く、網漁で水揚げされる魚が水産物の中心となっている[11]。岩海苔も特産物であるが、厳冬期の海に出て手で採集するため収穫量は少なく、流通することは滅多にない[11]。
島の土壌は痩せているが、農産物としてはラッカセイとサツマイモが評判高い[11]。これらも収穫量が少なく、島民の自給自足と親戚への配分で消費され、市場に出回ることはほとんどない[11]。ただ、旅館の宿泊客にラッカセイが出されることは稀にある[11]。
おおよそ2000年代以降の沖の島は、第三次産業の就業者が突出して多くなっている[3]。2010年度(平成22年度)の国勢調査では、産業別就業人口で、第一次の4人、第二次の5人に対して、第三次は53人であった[3]。海水浴場と磯釣りに加え、様々なマリンスポーツ、定期船観光、旅館・民宿などといった娯楽・サービス業の分野が基幹産業となっている。
交通
編集- 海上交通
- 土佐沖ノ島灯台、および、土佐沖ノ島港母島第3防波堤灯台 - 「行政施設等」節を参照。
- 宿毛市営定期船「沖の島・鵜来島~片島航路」[3]
- 沖の島町域を巡る定期旅客船航路で、磯釣り客を例外とする来訪者と島民にとって、島外との交通手段として平時において唯一の存在である[3][22]。四国本土(片島港)との片道所要時間は、およそ50分から1時間25分[13][23]。
- (1) 母港である片島港、(2) 沖の島の母島港、(3) 同じく弘瀬港、(4) 鵜来島の鵜来島定期船乗り場(鵜来島港)の4港を、便によって異なるルートで巡航する[21]。現在は、第1便の往路が (1)→(4)、復路が (4)→(3)→(2)→(1)、第2便の往路が (1)→(2)→(3)→(4)、復路が (4)→(1) というルートを辿る[21]。片島港旅客船ターミナル(四国本土の宿毛市片島9-7-11に所在)より午前7時発と午後2時30分発の一日2便を運行[21]。
- 沖の島渡船組合連合会 [24]
- 陸上交通
- その他
-
- 沖の島ヘリポート - 「供用施設等」節を参照。基本的に一般利用はできない。
名所旧跡・行事等
編集- 妹背山 - 沖の島の中央部を形成する同島の最高峰(標高404.1m)。四国百名山の一つ。しま山100選の1つでもある。頂上には展望台がある。
- 烏帽子埼(えぼしざき) - 島の最東端。
- 白岩岬(しろいわみさき) - 古屋野集落に最寄り。母島地区の西端部で、南にある弘瀬地区との西の区境にも位置する。島の景勝地で、岬の上は白岩公園として整備されている。
- 七ツ洞(ななつうど[25]) - 別名、観音洞[13]。白岩岬から南へと続く白亜層の断崖にある海食洞窟群。宿毛市営定期船から観ることができるほか、内部で繋がっている洞窟はカヌーによる通り抜けの可能。
- 母島のハカマカズラ - 母島地区に自生。宿毛市指定天然記念物。昭和44年3月8日指定。
- 亜熱帯植物群落
- 磯釣り場 - 島の内外は良好の磯釣り場が数多い。釣り人の人気は高く、片島港を母港とする沖の島の渡船業者が来訪客を日々案内している。[13]
- うどの浜海水浴場 - 古屋野集落地先の、うどの浜に所在。四国一早い海開きを行うことで有名な海水浴場[13]。海浜は砂浜で、海の透明度も極めて高い[13]。
- 久保浦海岸 - 久保浦集落地先の、久保浦の浜に所在。沖の島で一番大きな海水浴場[13]。元来、ここの海浜は砂浜ではなく大小さまざまな丸い礫でできている[13] が、2012年(平成24年)に発生した土砂崩れで白亜の砂浜が出現した。
- 徳法寺-母島集落にあるお寺。浄土真宗本願寺派。
- 正行寺-弘瀬集落にあるお寺。浄土真宗本願寺派。
- 山伏神社 - 妹背山山頂近くの北麓に所在する素朴な小社。境内で茂る「山伏神社のすだじい」は、樹齢500年以上とされるスダジイの巨木で、宿毛市指定天然記念物となっている[14]。
- 仏が丘 - 妹背山山頂近くの南麓に所在する地蔵菩薩の石仏群[13]。当初は33躯であったが、弘瀬集落の住人たちが願掛けをするたびに数が増えてゆき、今では120躯になっている[13]。
- 三浦家一族の墓 - 仏が丘に最寄りの妹背山南麓に所在する。
- 日吉神社(母島)
- 日吉神社(古屋野)
- 白皇神社
- 住吉神社
- 山ノ神神社
- 八幡神社
- 天満宮
- 鴨姫神社
- 荒倉神社 - 弘瀬集落に近い標高約100mの高所に所在し、境内にはアコウの巨木が茂る。
- 土佐沖ノ島灯台 - 「行政施設等」節を参照。
- 烏帽子埼灯台
- 土佐沖ノ島港母島第3防波堤灯台 - 「行政施設等」節を参照。
- 吉井勇歌碑
- 回天基地跡
- 荒木初子生家
- 母島のアコウ-宿毛市天然記念物。昭和51年2月4日指定。推定樹齢70年。
- 貝の古場のアコウ-宿毛市天然記念物。昭和44年3月8日指定。推定樹齢300年。
地域のゆかりのある著名人
編集出身著名人
編集- 荒木初子
- 1917年(大正6年)5月10日、幡多郡沖ノ島村弘瀬(現・宿毛市沖の島町弘瀬)の生まれ。保健婦。無医村であった沖の島・鵜来島を兼任する駐在保健婦として長年に亘って活躍し、地域の保健衛生環境の改善・向上に多大な貢献をした。その文化活動に対しては第1回吉川英治文化賞が贈られ、時を同じくしてその半生を描いた伊藤桂一の小説『「沖ノ島」よ 私の愛と献身を』も刊行された。さらにこの小説を原作として日活映画『孤島の太陽』が製作・上映された。生家は弘瀬地区に現存する。
- 横山やすし
- 1944年(昭和19年)3月18日、幡多郡沖ノ島村弘瀬の生まれ。大阪府堺市(現・堺市堺区)育ち。漫才師。西川きよしと漫才コンビ「やすしきよし」を結成し、一世を風靡した。やすしの母が弘瀬村の人で、やすし自身は生後の3ヶ月だけ居住した。
- 近田豊年
- 1965年(昭和40年)12月11日生まれ。日本プロ野球初にして唯一の両投げ登録の投手。当初は左投げだったがグラブがないため中学では右投げ、高校時代には左投げが主だった。南海ホークスの入団テストでは両投げを披露したが入団後には左投げを中心とした練習を行い、唯一の一軍登板では左投げのみだった。
地域にゆかりのある異邦人等
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 沖の島は、宇和海地域ではなく、合わせて指定された“その他の地域”の一つで、国立公園の名称からは省かれている。
- ^ 2007年時点で全国合わせて461、基準見直し後の2013年時点で254を数える有人離島の一つ。
- ^ 指定年月日は不明。高知県では沖の島と鵜来島の2島が指定を受けている(2017年時点)。
- ^ 一次離島とは、本土(※この定義下での「本土」は、北海道・本州・四国・九州・沖縄本島という5区域それぞれの本島。そのいずれか)と直の交通手段を有する離島を指す公文書用語。法的に定義されていない語ではあるが、実用されている。
- ^ 蒲葵島(びろうじま)は、大月半島先端と沖の島の間に位置する太平洋上の無人島。幸島(こうしま)は、蒲葵島と大月半島の間に位置する太平洋上の無人島。現在行政上は、両島とも高知県幡多郡大月町に所属する。
- ^ 沖の島に最寄りの裸島(はだかじま)は、沖の島の北に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。なお、同名の島は少なくとも日本国内に(沖の島最寄りの島を含めて)17箇所もある。
- ^ 沖の島に最寄りの二並島(ふたならびじま)は、裸島の北に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。同名の島が豊後水道上にもあり、こちらは2島からなる無人島で、現在行政上は愛媛県宇和島市に所属する。
- ^ 鵜来島(うぐるしま)は、沖の島の北西に位置する太平洋上の有人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属し、行政区画名は高知県宿毛市沖の島町鵜来島である。
- ^ 三ノ瀬島(さんのせじま)は、沖の島と姫島のちょうど中間地点にある無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。
- ^ 沖の島に最寄りの姫島(ひめしま)は、三ノ瀬島の西に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。四万十層群のうちの白亜紀四万十帯に属する砂岩泥岩互層(タービダイト)からなり、周囲は50~100mの海食崖に囲まれている。
- ^ 沖の島に最寄りの水島(みずしま)は、姫島の北に位置する無人島。現在行政上は高知県宿毛市沖の島町に所属する。
- ^ これは「沖の島内」という限定条件下での説明。
行政区域としての両者と鵜来島には最寄りの無人島が割り振られている。「沖の島町弘瀬」には姫島の南部が、「沖の島町鵜来島」には姫島の北部が、「沖の島町母島」にはその他すべての無人島が属している(※それぞれの区域名をGoogle地図検索にかければ、一部不完全ながら、区域が赤線で表示される)。 - ^ 古代日本において兄弟姉妹婚は禁忌ではなく、「いもせ(妹兄/妹背)」という語自体も、「兄妹」「姉弟」のほかに「夫婦」や「夫婦仲」をも意味した。
- ^ 非公共用ヘリポートとは、特定のヘリコプターの発着を目的に設置されるヘリポートのことで、消防、警察、新聞社などが設置する例が多い。
- ^ 島内の業者は渡船業専門で、母島に4社、弘瀬に2社。島外の業者は4社。
- ^ 渡船サービスの起点が片島港というだけで、母港は業者ごとに異なる。
出典
編集- ^ a b c d “高知県離島振興計画”. 高知県. 2023年10月16日閲覧。
- ^ 「いもせじま」とも。
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