池田治政

備前岡山藩5代藩主。岡山藩池田家宗家7代。池田宗政長男。従四位下・左近衛権少将

池田 治政(いけだ はるまさ)は、備前岡山藩5代藩主。岡山藩池田家宗家7代。

 
池田治政
池田治政
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延3年1月10日1750年2月16日
死没 文政元年12月19日1819年1月14日
改名 新重郎(幼名)、敏政(初名)、治政、一心斎(法号)
戒名 顕国院殿大徹一心大居士
墓所 岡山県岡山市中区円山の曹源寺内池田家墓所
官位 従四位下左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
備前岡山藩
氏族 池田氏(利隆流)
父母 池田宗政黒田継高長女藤子
兄弟 治政相良長寛、尚
酒井忠恭米姫
政恭[1]斉政政芳堀直温、晴姫、
兼子、佐野茂好正室
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生涯

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寛延3年(1750年)1月9日、第4代藩主・池田宗政の長男として生まれる。母は黒田継高の娘、藤子。幼名は新重郎、のち初名の敏政(としまさ)を名乗る。明和元年(1764年)、父の死去により家督を継ぎ、同年のうちに元服、将軍徳川家治より偏諱を受けて治政に改名する。この当時15歳で、決して幼少というほどの年齢でもないが、初めはまだ存命し隠居中であった祖父の池田継政から政務についてある程度の補佐を受けていたものと思われる。

藩主としては有能にして剛毅果断で、老中となった松平定信寛政の改革で倹約令を出したときにもこれに従わず、放漫財政を展開したという。文人としても優秀で、絵画や俳諧に様々な作品を残している。また、この関係からこの頃には衰退していた閑谷学校を再興している。

寛政6年(1794年)3月8日、長男の斉政に家督を譲って隠居する。文化4年(1807年)に剃髪して一心斎と号した。

文政元年(1818年)12月19日に死去した。享年69。墓所は岡山県岡山市中区円山の曹源寺

人物・逸話

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  • 治政は老中・松平定信が行なった、倹約や統制を主とした寛政の改革に反対し、豪勢な大名行列を編成して江戸に参勤した。このため、江戸市民は「越中(定信の官位)が越されぬ山が二つある。京で中山(中山愛親)、備前岡山(治政のこと)」という落首を詠んだという。治政は定信失脚後の翌年に45歳で隠居しているが、これは定信の後継者として幕政を主導していた松平信明の報復を受けたためとされている。
  • 隠居後は、島津重豪(薩摩藩隠居)や徳川治済(一橋徳川家隠居)らと交流があった。
  • 天明4年(1784年)、盗賊田舎小僧新助が岡山藩邸に忍び込んだ際、寝所で寝ていた治政に発見された。治政は家臣も呼ばず、自ら鉄の鞭を振るって追い回し、新助は夜闇に紛れて辛うじて逃げ延びた。翌年に捕えられた新助は、この時ほど慌てたことも恐ろしかったこともないと供述している[2]

系譜

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  • 父:池田宗政(1727年 - 1764年)
  • 母:藤子 - 宝源院、黒田継高の長女
  • 正室:米姫 - 鳳台院、酒井忠恭の娘
  • 側室:瀬川 - 柏原庸郷の娘
    • 長男:池田政恭(1772年 - 1827年) - 池田政房の死後に内密で身代わりとなったため[1]、公式には存在が記録されていない。
  • 側室:筆野(上田氏)
  • 側室:道 - 鳥井助十郎の娘
    • 四男(早世)

脚注

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  1. ^ a b 校正池田氏系譜壱・宮内庁書陵部所蔵「華族系譜20」p.65
  2. ^ 三田村鳶魚著『泥棒の話 お医者様の話』

池田治政が登場する作品

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ギャラリー

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曹源寺の治政夫妻の墓。右が治政の墓。