江村彦之進
江村 彦之進(えむら ひこのしん)は、幕末の人物。徳山藩士。徳山七士の一人。名は厚、字は季徳、号は風月。徳山藩士馬廻格50石・江村忠韶の四男で、兄は江村忠純(純一郎、華陽)と、同じく徳山七士の一人である本城清。
時代 | 幕末 |
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生誕 | 天保3年2月4日(1832年3月6日) |
死没 | 元治元年8月12日(1864年9月12日) |
別名 | 厚(諱) 季徳(字) 風月、酔顛(号) |
墓所 | 本正寺(山口県周南市) |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 毛利元蕃 |
藩 | 徳山藩 |
氏族 | 江村氏 |
父母 | 父:江村忠韶 |
兄弟 | 忠純(純一郎、華陽)、本城清、彦之進 |
生涯
編集長兄の江村忠純と同居し、文章に優れ、気節の士と目された。嘉永7年(1854年)、23歳で『徳山略記』前編4巻、後編8巻を編纂して、徳山藩主・毛利元蕃に献じた。嘉永6年(1853年)に黒船が浦賀に来航して以降、しばしば意見書を元蕃に上呈して士気の作興や綱紀の粛正を説き、その建言が立論適切で藩主の意に適ったため、藩校鳴鳳館の句読師に試用された。安政4年(1857年)には江戸に遊学し、安積艮斎に学んでその塾長となった後に帰国。安政6年(1859年)に兄の本城清を誘って九州を遊歴し、翌万延元年(1860年)には有志と共に山陽・山陰・畿内諸藩を遊歴した。帰国後は萩の明倫館に入り、楫取素彦・土屋矢之助(土屋蕭海)・周布政之助らと交わって国事を論じた。
文久2年4月22日(1862年5月20日)、下関竹崎の白石正一郎を訪ね、薩摩藩の状況を探った後、京摂から江戸に至って萩の同士とともに攘夷実行に奔走し、朝議の攘夷決定を見て文久3年(1863年)に帰藩。帰藩後、学館訓導役となり、同時に藩政に参与して海防局長、会計局長を兼ねて、軍制をはじめとする諸般の制度を改革し、軍備拡張・財政整理に活躍する。元治元年(1864年)の禁門の変後、徳山藩内では保守派(俗論派)が台頭し、8月11日に彦之進は保守派によって、「勤王と称して主家の廃立を謀った」として職を奪われた上で禁固に処せられた。翌8月12日早朝、藩士数名の訪問を受け、兄・忠純が対応したが、藩主の命により尋問をすると偽られ、東関門(周南市の桜馬場の東端)付近に連れ出されて殺害された。享年33。田町の本正寺に葬られた。
藩論回復後、徳山藩主・毛利元蕃は、殉難七士の家を復興し、その遺族を優遇した。明治21年(1888年)に靖国神社に合祀され、明治31年(1898年)には徳山七士の7名全員に従四位が贈られた。周南市の児玉神社には七士の顕彰碑(初めは遠石地区に建てられた)と贈従四位の碑が建っている。