江下武二
江下武二(えした たけじ、1910年(明治43年)11月22日 - 1932年(昭和7年)2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は工兵伍長。佐賀県神埼郡蓮池村(現:佐賀市蓮池町)出身で爆弾三勇士の一人。
江下 武二 えした たけじ | |
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1932年 | |
生誕 |
1910年11月22日 日本、佐賀県神埼郡蓮池村 |
死没 |
1932年2月22日(21歳没) 中華民国、上海 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 | 一等兵(死後伍長) |
墓所 | 正念寺(蓮池町)と大谷本廟(京都市東山区) |
経歴
編集親の事業の失敗から炭鉱を転々とし、少年期から杵島炭鉱で働く。父も兄二人も久留米歩兵連隊に入営した軍人一家で武二は海軍志望だったが、1931年(昭和6年)、父兄と同様に久留米工兵第18連隊に入営[1]。翌年には混成旅団工兵中隊に編入され、陸軍一等兵として第一次上海事変に出征。同事変の「廟行鎮の戦い」において北川丞、作江伊之助とともに中国軍陣地の鉄条網を自身ごと破壊筒をもって爆破・排除した、いわゆる爆弾三勇士の一人。死後は一等兵より二階級特進し、伍長に進んだ。爆死については決死の突撃、事故、上官の命令など諸説あるが、陸軍が愛国美談に仕立てたうえに新聞が大きく報道したため、芝居や映画となるなどの大きなブームを生んだ。
死後、県民の寄付により蓮池公園に銅像が建てられたが、第二次世界大戦の戦局悪化に伴う金属提供により供出された。ただし、原型の石膏像が残っており、寄贈を受けた陸上自衛隊目達原駐屯地が復元の上、広報資料館で展示している[2]。また、公園に残された台座は8代目蓮池藩主である鍋島直與(雲叟)の歌碑に転用された。
地元以外では、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像が設置された。しかし、戦後には撤去され、後に江下の部分のみが新たな台座とともに安置されている[3]。ほか、山川招魂社に「爆弾三勇士」の碑、陸上自衛隊久留米駐屯地に肉弾三勇士のジオラマ、東京靖国神社にレリーフなどがある。
脚注
編集出典
編集- ^ 「肉弾三勇士の生立 江下武二君」『爆弾三勇士』護国業書、軍事教育刊行会、44-46頁。
- ^ 「肉弾三勇士」江下伍長の像、16年ぶり展示 佐賀新聞 - 2010年8月10日
- ^ 【軍事のツボ】戦後70年と軍神の今 なぜ日本人はこれほど時代に流されたのかサンスポ - 2015年3月12日
参考文献
編集- 護国業書『爆弾三勇士』軍事教育刊行会、1932年4月10日発行