永田定右衛門
永田 定右衛門(ながた さだうえもん、1851年(嘉永4年11月[1])- 1914年(大正3年)8月6日[1])は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名・湯浅善太郎[2]。
経歴
編集越前国今立郡鯖江下深江町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)の湯浅家に生まれ[2]、丹生郡下氏家村(福井県丹生郡岡山村、豊村を経て、現鯖江市下氏家町)[3]の永田家の養子となり定右衛門を襲名した[2]。自由民権運動に傾倒し杉田定一らと関わり、北陸自由新聞の発刊や南越倶楽部の副会頭を務めるなど活動した[3]。1882年(明治15年)には福井県会議員に当選し、議長および副議長を歴任した[4]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では福井県第3区から出馬し当選[1]。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 大久保利夫『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第2編』六法館、1890年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。