永山盛輝
幕末の薩摩藩士、明治期の官僚・政治家
永山 盛輝(ながやま もりてる、1826年9月16日(文政9年8月15日) - 1902年(明治35年)1月18日[1][2])は、幕末の薩摩藩士、明治期の官僚・政治家。筑摩県権令、新潟県令、元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候、男爵。通称・清右衛門、左内、正蔵[3]。長野県の近代教育に尽力した。
経歴
編集薩摩藩士・永山盛広の息子として生まれる[3]。勘定奉行、江戸留守居役を務め藩政改革に尽力した[4]。戊辰戦争では東征軍の薩摩藩兵監軍として従軍し各地に転戦した[3]。
明治2年2月28日(1869年4月9日)会計官御東幸中用度司判事に就任。その後、大蔵省用度権大佑、民部省監督権大佑を歴任。明治3年6月23日(1870年7月21日)伊那県出仕に転じ、租税大佑と同県少参事心得を兼任。同県少参事、同大参事を歴任。
明治4年11月20日(1871年12月31日)伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、1873年3月、同権令に昇進[5]。筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した[6]。その状況は同行した長尾無墨によって『説諭要略』という本にまとめられ、出版されている。[7]
1875年10月、新潟県令に転任。戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力[4]。
1885年4月18日、元老院議官に就任。1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[5]、1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[8]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられ[9]、死去するまで在任した[10]。1900年5月9日、勲功により男爵を叙爵[11]。
1902年、死去。
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 勲章等
親族
編集関連項目
編集脚注
編集- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、257-258頁。
- ^ 『明治維新人名辞典』719頁では「1月17日」没。
- ^ a b c 『明治維新人名辞典』719頁。
- ^ a b 『新編日本の歴代知事』399頁。
- ^ a b 「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 永山盛輝」
- ^ 『朝日日本歴史人物事典』1227頁。
- ^ 『善光寺繁昌記』光竜堂、2008年1月14日、78頁。
- ^ 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
- ^ 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』148頁。
- ^ 『明治過去帳』新訂初版、644頁。
- ^ 「夜明け前」と馬籠をめぐって有賀光良、日本共産党長野県委員会 『民主長野』2005年1月号
- ^ 『官報』第578号「賞勲叙任」1885年6月6日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 中野文庫・旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 太政官「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 永山盛輝」明治2年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-031-09・職00149100
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
男爵 永山(盛輝)家初代 1900年 - 1902年 |
次代 永山盛興 |