水野忠幹 (紀伊新宮藩主)

水野 忠幹(みずの ただもと)は、紀伊新宮藩紀州藩附家老[1]第10代藩主。第9代藩主・水野忠央の長男。

 
水野忠幹
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 天保9年12月7日1839年1月21日
死没 明治35年(1902年4月30日
別名 真龍磨、藤四郎(通称)、鬼水野(渾名)
戒名 真徳院殿忠幹日現大居士
墓所 高松寺(神奈川県鎌倉市
水野家墓所(和歌山県新宮市
官位 従五位下大炊頭正四位男爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川茂承
紀伊新宮藩主→新宮藩知事
氏族 水野氏
父母 父:水野忠央
兄弟 忠幹勝任
正室:水野忠邦の娘・八重
継室:水野忠精の養女・
継々室:三宅康直の四女・釥子
忠宜片桐貞央忠武重吉
待姫、常(森英妻)、富子(川口武和妻)
千代子(水野敏勝妻)
養女:悦(水野忠弘妻)
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生涯

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天保9年(1838年)12月7日、紀伊新宮藩第9代藩主・水野忠央の長男として生まれる[2]嘉永5年(1852年)、諸大夫に任命され、父の忠央と共に紀州藩の藩政に参画する[3]桜田門外の変後の万延元年(1860年)6月14日に父の忠央が失脚し、強制隠居処分となったことを受けて翌15日[4]に家督を継ぎ、従五位下大炊頭に叙任され[3]附家老として紀州藩主・徳川茂承を補佐した。策謀家・専制的であった父とは違って謹厳実直であり、活発で度量も広かったため、周囲から人望を集めたと言われている[5]

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では幕府軍の先鋒を務め、各地で幕府軍が敗れる中で、忠幹が率いる軍勢だけは安芸国佐伯郡大野村(現在の広島県廿日市市)まで進撃するという大戦果を挙げた[3]。幕府軍が撤退する中では殿軍を務め、長州藩の軍勢もその忠幹の武勇を恐れて追撃できず、「鬼水野」と呼ばれて畏怖されたという[3][5]

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦い後、旧幕府軍の敗残兵を藩内に受け入れていた紀州藩は新政府の嫌疑を受けたため、附家老の忠幹が弁明のために上洛し、1月14日に「3ヶ条の弁明」を提出している[3]。同年1月24日、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万5,000石の大名として認められ、新宮藩を立藩している。明治2年(1869年)に版籍奉還が行われると、新宮藩知事に任命されたが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により免官。新宮藩が正式に大名の領地)として存在したのは明治維新後の数年間に過ぎなかった。同年9月、東京府に移住[6]。明治17年(1884年7月7日華族令により男爵を叙爵し、錦鶏間祗候に任ぜられた[6]

明治35年(1902年4月30日神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現在の鎌倉市)の自邸で死去した[6]。63歳没。法号は真徳院殿忠幹日現大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺[6]和歌山県新宮市の橋本山にある水野家墓所[5]。長男の忠宜は同年1月の八甲田雪中行軍遭難事件で遭難死しており、また息子の多くは他家に養子に出されていたため、当時4歳の八男・重吉(じゅうきち)が家督を継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^ 幕藩体制下では陪臣として扱われており、大名としては忠幹が初代藩主である。
  2. ^ 『江戸時代全大名家事典』では天保6年11月7日1835年12月26日)生まれの四男とされる。
  3. ^ a b c d e 工藤[2008: 1102]
  4. ^ 霞会館[1996: 681]
  5. ^ a b c 安岡[2010: 937]
  6. ^ a b c d 水野[1913]
  7. ^ 『水野家系譜』には「御離縁」とある。

参考文献

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  • 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年、681-682頁。
  • 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年、1102頁。
  • 水野八十郎編『水野家系譜』水野八十郎、1913年。
  • 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年、937頁。

外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
新宮水野家初代
1884年 - 1902年
次代
水野重吉