正親町実徳
幕末の公家、明治期の官僚・華族。正親町実光の三男。正親町家19代。正二位、権大納言
正親町 実徳(おおぎまち さねあつ)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。通称・亀久麿[1]。
正親町実徳 | |
時代 | 江戸時代末期-明治時代 |
生誕 | 文化11年9月29日(1814年11月10日) |
死没 | 1896年(明治29年)10月31日[1] |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 正親町家 |
父母 | 父:正親町実光 |
兄弟 | 雅子、公訓、公道、実徳、公厚 |
妻 | 広橋陳子(広橋胤定の娘)、山内美賀子(山内豊敬の娘) |
子 | 実正、兼、順子、養子:公董 |
経歴
編集山城国京都で権大納言・正親町実光の三男として生まれる[1]。兄・公道の死去に伴い、文政元年6月13日(1818年7月15日)家督を継承[2]。文政7年12月16日(1825年2月3日)に元服し昇殿を許された[3]。左近衛権少将、右近衛権中将、参議、権中納言などを歴任し、安政6年4月3日(1859年5月5日)権大納言に任じられた[3]。
安政5年3月(1858年)、日米修好通商条約締結の勅許案を巡り、中山忠能・大炊御門家信・広幡忠礼・四辻公績・正親町三条実愛・三条西季知・日野資宗・庭田重胤・中院通富・橋本実麗・野宮定功・八条隆祐と共に、案文の変更を求めた[4]。元治元年7月19日(8月20日)の禁門の変では長州藩側として動き、参朝停止、他人面会・他行の禁止を命ぜられ、慶応3年1月(1867年)に赦免された[1]。
王政復古後、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与に就任[5]。その後、兼皇太后宮大夫、大宮祗候などを歴任し、明治2年7月27日(1869年9月3日)から明治3年12月12日(1871年2月1日)まで皇太后宮大夫を務めた[5]。
栄典
編集親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
公職 | ||
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先代 (新設) |
皇太后宮大夫 1869年 - 1871年 |
次代 烏丸光徳 |