正親町公董
幕末の公家、明治期の華族、陸軍少将
正親町 公董(おおぎまち きんただ)は、幕末の公家、明治期の華族、陸軍少将(兵部省)。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保10年1月24日(1839年3月9日) |
死没 | 明治12年(1879年)12月27日[1] |
別名 | 通称:連麿[2] |
墓所 | 豊島区の染井霊園 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 中山家→正親町家 |
父母 |
父:中山忠能、母:中山愛子 養父:正親町実徳、養母:山内豊敬の六女 |
兄弟 | 中山忠愛、中山慶子、公董、中山忠光 |
子 |
季董、兎美子、弥栄、春香 養子:実正 |
経歴
編集山城国京都で権大納言・中山忠能の二男として生まれ[3]、権大納言・正親町実徳の養子となる[1]。嘉永4年3月23日(1851年4月24日)に元服し昇殿を許された[4]。嘉永5年7月3日(1852年8月17日)左近衛権少将、安政3年2月14日(1856年3月20日)国事寄人となる[1][4]。
文久3年5月(1863年6月)長州藩が外国船への砲撃を行い攘夷を決行すると、同年6月14日(7月15日)長門国監察使に任じられ長州藩に攘夷実行嘉賞の勅諚を届け、三田尻で三条実美と会見した[1][4]。同年八月十八日の政変により、同年10月7日(11月4日)三条との会見を咎められ差控となり、慶応3年1月25日(1867年3月1日)に赦免された[1][4]。
王政復古後、慶応3年12月13日(1868年1月7日)参与に就任し、慶応4年2月2日(1868年2月24日)左近衛権中将に任じられた[2]。同年2月9日(3月2日)東征大総督参謀となり、さらに奥羽追討白河口総督を務め各地を転戦し、明治元年11月5日(1868年12月18日)京都に帰還した[2]。その後、兼皇后宮亮、三等陸軍将、十津川郷巡察使、陸軍少将などを歴任[2]。明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄300石を永世下賜された[2]。明治4年3月24日(1871年5月13日)に免本官となる[2]。