歌川国長
江戸時代の浮世絵師
来歴
編集渓斎英泉編の『無名翁随筆』によれば初代歌川豊国の門人。俗称は梅干之助(ほやのすけ)、一雲斎と号す。江戸の生まれで芝口三丁目(現在の新橋駅東口近く)に住み、のちに金六町(現在の銀座八丁目の辺り)に移った。「組上燈籠絵、或いは細かき細工物に組上げる錦絵」すなわち立版古の絵を得意とし、また「酒席に興を添へる事を能くす」とあり、幇間をしていた桜川善孝、甚幸[1]といった人物とは一時の友人だったという。
作画期は享和から文化の頃にかけてで、作は黄表紙や合巻の挿絵、役者絵、美人画、名所の浮絵や外国の風景を残している。なかでも『七奇図説』(『虞初新志』第十九巻所収)に基づく世界の七不思議を描いた横大判の錦絵は、ロドス島の巨像を描いた歌川国虎の作と並んで異色である。『増訂浮世絵』は国長の作で6尺(約2m)に余る大美人を描いた絵があったと伝える。
国長の没年については『東京美術家墓所誌』(1936年刊)に「文政十年(1827年)七月十八日」とあるが[2]、文政11年に初代豊国追善のため建てられた筆塚(豊国先生瘞筆之碑)には国長の名が見え、この頃まで存命だった可能性があり定かではない。『浮世絵師伝』は文政12年に四十余歳で没したとするが、その根拠については示されていない。『無名翁随筆』は「文化ノ末ヨリ文政ニ歿ス、四十余」と記す。墓所は『東京美術家墓所誌』によれば築地円正寺で無縁塔に合祀、戒名は釈清順居士。
作品
編集版本挿絵
編集- 『匂ひ嚢』 洒落本 ※塩屋艶二作、享和元年序
- 『敵討旭霜解』 黄表紙 ※面徳斎夫成作、文化3年
- 『玉櫛笥二人奴』 黄表紙 ※十返舎一九作、文化3年(1806年)刊行
- 『運輝長者之万燈』 合巻 ※関亭伝笑作、文化10年
- 『恋女房讐討双六』 合巻 ※姥尉輔作、刊行年不明
錦絵
編集- 「京町壱丁目若松屋内 緑木 かめし いわみ」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵
- 「京町壱丁目大もんじや内 一もと せんかく ばんき」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵
- 「新吉原角町松葉屋内 代々とせ はつね こてう」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵
- 「二世沢村田之助死絵」 大判錦絵 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文化14年(1817年)
- 「新板阿蘭陀浮画 阨日多国尖形高台」 横大判錦絵5枚揃の内 ※エジプトのピラミッドを描く。
- 「新板阿蘭陀浮画 亜細亜洲巴必鸞城」 横大判錦絵5枚揃の内 東京国立博物館所蔵 ※バビロンの空中庭園。
- 「新板阿蘭陀浮画 亜細亜洲茅索禄王塋墓」 横大判錦絵5枚揃の内 ※マウソロス霊廟。ただし描かれているのは『七奇図説』によればアルテミス神殿である。
- 「新板阿蘭陀浮画 欧邏巴洲石造供木星人形」 横大判錦絵5枚揃の内 ベルリン東洋美術館所蔵 ※「木星人形」とはオリンピアのゼウス像のことだが、この絵の内容は「木星人形」ではない。
- 「新板阿蘭陀浮画 楽徳海嶋銅巨人像」 横大判錦絵5枚揃の内 ボストン美術館所蔵 ※ロドス島の巨像。
- 「新板浮絵江戸名所八景 上野ノ晩鐘」 横大判錦絵揃物の内 東京都立図書館所蔵
- 「新板浮絵江戸名所八景 浅草観音奥山ノ落雁」 横大判錦絵揃物の内 ボストン美術館所蔵
肉筆画
編集- 「雪中美人図」 紙本着色 東京国立博物館所蔵
- 「美人立姿図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵
- 「菖蒲と武家奥方図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
- 「椿と花魁図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
- 「鮎釣る美人図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
- 「美人舞姿図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵